何とかまだ生きている感じ。だがまもなく・・・。
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「鬼才」(死者のような才能)と言われた唐の李賀は
我当二十不得意、 我まさに二十にして意を得ず、
一心愁謝如枯蘭。 一心愁い謝(ひら)きて枯蘭の如し。
わたしは今二十歳になったが、何もかもうまくいかない。
わたしの心には憂愁の花が咲いている―――枯れかけた蘭のような暗い花が。
という詩を書いていたが、
至二十七而卒。
二十七に至りて卒す。
二十七歳のときに死んだ。
蘇東坡の影響を受け、「蘇門四学士」の一人と謳われた宋の陳無己は
七十已強半、 七十すでに強半、
所余能幾何。 余すところよくいくばくぞ。
遥知暮夜促、 遥かに暮夜の促すを知り、
更覚後生多。 更に覚ゆ、後生(こうせい)の多きを。
人生七十年の半分はもう過ぎた。
あとどれくらい残っているのだろうか。
遠くで除夜の鐘が鳴って、わしの旅路を急がせる。
自分より若い者の方が、もうこの世には多いのだ。
とうたったが、
至四十九而卒。
四十九に至りて卒す。
四十九歳のときに死んだ。
いずれも不吉な詩を書いたあと、いくばくも無くして死んだのである。
語意不祥如此、豈神明者先授之。
語意の不祥なることかくの如きは、あに神明者のこれを先授せしか。
不吉なことばをこのように書き連ねていたのは、やはり神的な精霊が彼らに事前に未来を教えていたのではなかろうか。
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宋・葛立方「韻語陽秋」巻二より。
20世紀の「眠れる預言者」エドガー・ケイシー先生のように、アカシック・レコードが読めてしまったのですね。不吉なことはいつか必ず成就するから、わしも不吉なことばかり言いまくっているので、いつの日か予言者となれるはずなのである。
―――その時代は雲間に再び主の光が見られる時代と宣言されるだろう。その時、その季節、その場所については、神の御名を呼び求めてきた者たちに(中略)告げ知らされるであろう。
ケイシーが「最終シナリオ」で、このように指摘した危機の時代は1958〜98年までの間に開始されているらしい。ですぞー!