「肝冷斎のおぢたん、何かおもちろいお話ちてー」
「おお、よしよし、それではおもしろくてタメになるのをひとつ、いたしましょうぞ」
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宋の初めのころのことでございます。
海陵の町に住む王綸という男、何の変わったところも無いごくごく普通の市井の民だったのですが、この王綸のむすめが
為神所憑、自称仙人。
神の憑くところと為り、自ら「仙人なり」と称す。
精霊に憑依されまして、「われは仙人なり」と言い出した。
もともとはそれほど文字を知る方ではなかった娘であったが、きわめて形の整った美しい文字を書くようになり、またすばらしい詩句をひねり出すようになったのである。
ある時、雪の降るのを見て、作詩して曰く、
何事月娥欺不在、 何事ぞ月娥の在らざるを欺きて、
乱飄瑞葉落人間。 瑞葉を乱れ飄(ひるが)えして人間(じんかん)に落とす。
はあ?
何ですか、この句は。
「月娥」はもとは地球に住んでおったが、夫が西王母のところからもらってきた不死の仙薬を飲んで月の世界に去り、今も月宮に住むという女神・姮娥(こうが)さま(あるいは「嫦娥」(読みは同じ))のこと。
どういうことでしょうか。姮娥が月宮を留守にしているのをいいことに、
天上にしかない葉を人間世界にみだりに散らせるなんて。
これは、まず「自分はあの姮娥である」と言っている。それから、天上から葉が落とされてくるのを嘆いている。父親が
「天上から落とされてくる「瑞葉」というのはどういうことなのかな?」
と訊ねると、むすめが言うには、
天上有瑞木、開花六出。
天上に瑞木あり、開花六出す。
「天上のわらわの宮殿にはわたしが大切にしている木があります。その木に咲く花には花びらが六つあるの。
雪片をよくよく見ると花びらが六つあるからあの木から散って来たんだとわかったのよ」
そして、
「そうか、清非孺子(せいひ小僧)には天上の宮殿のこと、わかりませんもんね、おほほほ」
と嗤ったであった。
(そうか、わしは「せいひ小僧」というのか)
と父親は思ったそうですが、意味はよくわからなかったそうである。
ほかにも、海辺に山のあるのを見て、
濤頭風捲雪、 濤頭 風は雪を捲き、
山脚石蟠虬。 山脚 石は蟠りて虬となる。
逆巻く波がしらの先では、風が雪を(海に)巻き込み、
山の麓では奇岩がうねり、そのうちいくつかは蛇に変じた。
と書いたのは有名である。
またあるとき、父親に
君為秋桐、我為春風。
君は秋桐たり、我は春風なり。
あなたは秋桐みたいなもの、わらわは春の風なのよ。
という詩を贈った。
「うーん、どういう意味なのかな?」
と訊ねると、むすめ、「あははは」と嗤って曰く、
春風会使秋桐変、秋桐不識春風面。
春風はかならず秋桐を変じせしむるも、秋桐は春風の面を識らず。
春風が吹くと秋桐は必ず葉を開きはじめるのだけど、秋桐の方は春風が目に見えない。
ということ。ま、清非孺子にわかるはずないっかー。わははは、わはははは・・・・・・・」
とせいいっぱい笑ったそうである。
さて、この世のことは、いつまでも変化しないわけにはいきませぬ。
居数歳、神舎女去、懵然無知。
居ること数歳、神、女を舎(す)てて去り、懵然(ぼうぜん)として知ること無し。
そんなふうにして数年経ったが、精霊はむすめから離れて行ってしまい、むすめはまるで夢から覚めたかのようにそれまでのことを何も覚えていないのであった。
さらに数年して、むすめはふつうに呂という家にヨメに行った。
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宋・劉攽(りゅう・はん)「中山詩話」より。たいていの父親にとっては、むすめというものは一時期は神さまで、あるいは理解できず、しかしやがてふつうの女になって去って行く―――こういうものなのかも知れません。・・・・
とわしがしみじみと説教しているのに、
「わあい、おいらたちにも神さま憑依するかなー」
「あたちに憑依ちたらあんたをちんちん小僧にちてあげるねー」
とコドモたちが想像をたくましうして楽しそうにしているので、わしは
「うるさい!」
と怒鳴った。
コドモたちが押し黙ったので、
「ああ、ばからしい。何ガキみたいなこと言ってるんだ? と思ったがほんとにガキだったぜ、けけけ」
と嘲ってやった。昼間のしごとで優しさの分だけ心が削られ、わしはササくれだっているのだぜ。