7月も終わりでございます。記念に勉強になるお話を一席。
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南北朝時代の南の方にあった「南斉」王朝の二代目の皇帝・䔥賾が、ある日の宴席で群臣たちに訊ねた。
我後当何諡。
我、後にまさに何と諡(おくりな)すべきか。
「わしのような皇帝には、崩御の後、何というおくり名をつければよいものかのう。」
そうですね、それは・・・む。・・・むむむ。
誰も答えません。
それはそうである。皇帝の前でその「死」を前提にした話ができるか。また、皇帝自身を評価するような話ができるか。例えば、
「あんたも数年から数十年のうちには、冷たい地下の世界に行くんでっせー。そうしたら、「斉の呆帝」というおくり名でもつけまっか。「阿呆」の「呆」ですわー」
とか言いましたら、下線部のあたりしゃべっているころに、もう首と胴体が離れてしまっているでしょう。
ということで、
莫有対者。
対あるものなし。
お答えする者は一人もいなかった。
皇帝もさすがに「変な質問してしまった」ことに気づいて気まずそうにしている。
この場の雰囲気を何とかしなければなりません。
宰相の王倹は、普段は阿諛者であると軽蔑している庾杲之(ゆ・こうし)の方に目配せした。
庾杲之、にじり進んでにこやかに曰く、
陛下寿比南山、与日月斉明。千載之後、豈是臣子軽所度量。
陛下は寿は南山に比し、日月と斉明なり。千載の後、あにこれ臣子の軽がろしく度量するところならんや。
「陛下! 陛下の御寿命はかしこに見える南山がある限り続きましょう。そして、陛下の御賢明なることは太陽や月の明るさと等しいのでございます。とすれば、たとえ千年が経ったところで臣下や御子孫がたやすく評価できることができましょうか」
「わっはっはっは」
皇帝はお笑いになり、
「わかった、わかった、そういうことじゃろうなあ」
と頷かれたので、再びその場の空気和み、宴会は続けられたのでありました。
よって、どんな人物にもなにがしかの使いようはあるものだ、というのでございます。
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南北朝の北の方にあった「北斉」の陽松玠の「談藪」より。勉強になります。
なお、䔥賾さまは西暦483年に即位されましたが、結局在位は十一年、493年には崩御されました。在位中に軍事的成功があったので、諡号を「斉(南斉)の武帝」ともうしあげます。