平成25年7月30日(火)  目次へ  前回に戻る

 

勇気の湧いてくる話。

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中唐を代表する大文人・韓愈は当時新進の科挙官僚グループを率いた政治家でもありましたが、その韓愈のもとに一時、劉叉という食客がおりました。

劉叉

少放肆、為侠行、因酒殺人亡命。会赦、出、更折節読書、能為歌詩。

少にして放肆、侠行を為し、酒に因りて人を殺して亡命す。赦に会い、出でて更に読書に折節し、よく歌詩を為(つく)る。

若いころは気まま者で、やくざ者のように振る舞い、酒に酔って人を殺して行方をくらましたことがあった。後、大赦があったのでまた復帰して、それからは読書に努め、また歌や詩をたくみに作った。

という人であったが、韓愈が天下の士をよく遇するというのでこれに面会し、食客となったのである。

しかし、

後以争語不能下賓客、因持愈金数万斤去。

後、争語を以て賓客に下るあたわず、因りて愈の金数万斤を持して去る。

やがて韓愈の邸に来た賓客と言い争い、謝ることもできず韓家に居られなくなり、ついに韓家にあった数万斤もの黄金を持ち逃げしてしまったのであった。

その際、書置きをして曰く、

此諛墓中人得耳、   これ墓中の人に諛(へつら)いて得るのみ、

不若与劉君為寿。   しかず、劉君とともに寿を為すに。

これらの黄金は、墓の中の人への阿諛追従で得たものでござろう。(←人の墓碑銘を書いて得た「潤筆料」だ、ということ)

これからは、黄金たちも、この劉さんとともに長生きしていきたいにちがいありませぬ。

これには韓愈も苦りきった顏で、後を追わせることもできなかったという。

劉叉は、

帰斉魯、不知所終。

斉魯に帰り、終わるところを知らず。

いにしえの斉・魯の地方(今の山東)に帰って行き、その後も放浪の生活を送って、どこで人生を終えたのかわからない。

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宋・尤袤「全唐詩話」巻二より。

別に持ち逃げまでしなくてもいいのですが、劉叉さんの行動を見ていると、われらはもともと自由に生まれついたものなのだ、ということを今更ながら思い出してまいるではありませんか。

「よし、わしも追い込まれたら逃げるぞー」とインスパイアーされてきたぞー。

 

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