平成25年7月18日(木)  目次へ  前回に戻る

 

東京の職場はコワい。だんだんウツになってくるのが実感されます。

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曾子曰く

無内人之疏而外人之親。無身不善而怨人。無刑已至而呼天。

内人これ疏にして外人これ親しむこと無かれ。身に不善ありて人を怨むこと無かれ。刑すでに至りて天を呼ぶこと無かれ。

@   身内の人を疎んじて、外部の人とばかり親しむことはよろしくない。

A   自分の方に善くない部分があるのに、他人を怨むのはよろしくない。

B   刑罰がすでに執行されようとしているときになって、天に救いを求めてもよろしくない。

だそうです。

孔子の高弟であられる曾参が言っているのだから、みなさんこの三点、しっかり守ってくださいよ。

「なぜ? どんな理由でその三つのことを守らないといけないのだ?」

と質問することがカシコイことだと思っているらしいひとがいたので、

「曾先生、「なぜその三つのことを守らないといけないのだ?」と訊いてきたやつがいますぜ」

と告げ口してみた。

曾子曰く、

@  内人之疏、而外人之親、不亦反乎。

内人これ疏にして外人これ親しむは、また反せざるや。

身内の人を疎んじて、外部の人とばかり親しむのは、本来の逆ではないか。

A  身不善而怨人、不以遠乎。

身不善にして人を怨むは、以て遠しとせざるや。

自分の方に善くない部分があるのに、他人を怨むのは、近くの自分(←矯めようと思えば矯められる)ではなく遠いところに原因を求めてしまっているのではないか。

B  刑已至而呼天、不亦晩乎。

刑すでに至りて天を呼ぶは、また晩(おそ)からざるや。

刑罰がすでに執行されようとしているときになって、天に救いを求めるのは、遅くはないか。

とのことでした。

頭がいいひとの中には、@とAには反論がある、と思うひともあるカモ知れませんが、これ以上曾先生に告げ口して先生が怒ってくるとイヤなので止めておきます。

たしかにBはそのとおりで、今のわたしがこれだ。もう坐して滅ぶ以外にどうしようもない。

「詩経」にいう、

涓涓源水、不壅不塞、  涓涓たる源水も、壅(ふせ)がず塞(ふさ)がず、

轂已破砕、乃大其輻、  轂(こしき)すでに破れ砕けて、すなわちその輻(や)を大いにし、

事已敗矣、乃重大息。  事すでに敗れて、すなわちはなはだ大息す。

 ほそぼそとした泉の水も、ふさいだり堰いたりしなければ、やがてはどうなるか。(大いなる流れになって防げなくなる。)

 車輪の真ん中の軸受けが壊れてしまってから、車輪を強化しようとスポークを太いものにとりかえて効果はあるか。(軸受けが壊れているのでもう意味がない。)

 事案がすでに失敗に帰したあとで、たいへん大きなためいきをついて、どうなることであろう。

と。

いずれも後悔してももう益の無いことである。

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「荀子」法行篇より。ということで、わしももうおしまい。どうあがいても刑罰は執行される。さらばじゃ、みなの衆。

 

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