平成25年6月7日(金)  目次へ  前回に戻る

 

むかしむかし。

嶺南(今の広州)のウサギは、その毛を使って良質の筆ができると評判であったのじゃ。

嘗有郡牧得其皮。

かつて郡牧のその皮を得る有り。

以前、ある郡知事がウサギの毛皮を入手したことがあった。

「これを用いて筆を造れ」

使工人削筆。

工人をして筆に削らしむ。

職人に筆を作るように命じた。

ところが職人は

酔失之。

酔うてこれを失えり。

酔っぱらって毛皮を無くしてしまったのじゃ。

「これは困った」

大いに困った職人は、

剪己鬚為筆。

己の鬚を剪りて筆と為す。

自分のあごひげを剃って、それで筆を作った。

そして何も知らぬ知事にこれを奉ったのである。

―――数日後―――

職人は知事に呼び出された。

おそるおそる出向くと、知事はたいへんゴキゲンで、何羽かのウサギの毛皮を前に、

「おまえに作らせた筆は

甚善。更使為之。

甚だ善し。更にこれを為さしめん。

すばらしいの一語に尽きる。さあ、このウサギの毛皮を使って、もっと筆を作るのだ」

と言ったのである。

「めっそうもござりませぬ」

職人は強く辞退した。

「なにゆえじゃ」

知事がその理由を訊いたところ、職人は観念して

「以前お預かりしたウサギの毛皮は無くしてしまいました。奉った筆は、実は、や、やつがれのあごひげで造りました・・・」

と答えたのである。

「そうであったか、なるほどなあ」

知事は大いに気づくところがあり、

下令使一戸輸人鬚。

下令して一戸ごとに人の鬚を輸せしむ。

命令を下して、郡の人民に一戸ごとに割り当ててニンゲンのあごひげを納税させた。

そして、そのあごひげを職人たちに命じて筆に作らしめ、各方面への贈答や商品に使ったのである。

或不能致、輙責其直。

あるいは致す能わざるは、すなわちその直を責む。

ひげの納税ができない家には、その分の現金を納めさせた。

このため嶺南一帯ではあごひげに高い値がつくようになった。

・・・ということじゃ。おえらがたはよくいろいろなことに気のつくものである。ただし自分の利害に関することに限るようじゃが。

・・・・・・・・・・・・・・・

「嶺南異物志」(「太平廣記」巻209所収)より。

今日からは自分の状況への感想めいたことは挟まずに、ただただ漢文を訳すだけのスタイルになった。この数日いろいろあった。まだあるようである。肝冷斎は、その現実社会からの「圧」によりついに感情を失った「人間漢文翻訳器械」へと変じてしまったのだ、と御理解いただきたい。

 

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