近年のフィールドワーク(←観光のこと)の地である沖縄に帰ってまいりました。
今日はコドモの日も終わりましたのでオヤジの方。
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半生違志客他郷、 半生志に違いて他郷に客たり、
卅載重過旧草堂。 卅載(そうさい)重ねて過ぐ旧草堂。
寺古鷲山烟樹暗、 寺は古りて鷲山に烟樹暗く、
舟来星渚芰荷香。 舟は来たりて星渚に芰荷(きか)香る。
幾人得学陶潜逸、 幾人か学び得ん、陶潜の逸を。
到処還誇杜牧狂。 到処にまた誇らん、杜牧の狂を。
唯剰浪游千里迹、 ただ剰(あま)す、浪游千里の迹に、
一嚢詩句満頭霜。 一嚢の詩句、満頭の霜。
卅(そう)は「三十」を示す数詞。「草堂」は粗末な建物ですが、ここでは作者が少年時代に暮らした田舎のあばら家。そのあばら家の近くにお寺があり、川が流れていたらしい。それを「鷲山」「星渚」と表記していますが、ほんらいの地名はこんなにかっこいいはずはないと思います。
若いころの志と違って人生の半分ぐらいは故郷を離れて暮らしてきた。
三十年を経て、また(むかし住んだ)この草ぶきの家を通りがかったのだ。
古い寺のある鷲の山の麓である。山には霞がかかり、木々は茂って暗い。
川をさかのぼって星の渚まで小舟で来たのだ。水辺には蓮の花が咲き匂っていた。
晋の陶潜は字・淵明、例の「帰去来辞」の作者、唐の杜牧は青年時代揚州の地で遊冶郎の名をほしいままにし、「かちえたり青楼、薄倖の名」(遊郭では「うす情けの杜牧さま」と呼ばれたものさ)と自ら歌っております。
どれだけの人が陶淵明のように現世を棄てて、隠逸の生活を真似ることができているのか。
また、どこに行っても杜牧のように遊郭で名を成すような、おかしな青春を送ることができているのか。
わしがこの旅から旅への千里の放浪の間に得てきたものは、
ただ嚢(ふくろ)いっぱいの詩句と、頭いっぱいの白髪ばかりじゃ。
最後の「一嚢の詩句」は、ロバに乗って散策し、できた詩句を従者に持たせた嚢にどんどん放り込んで、すぐいっぱいになった、という李賀の故事を利かせているのである。
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本朝・永井禾原「過故里題草堂壁」(故里を過ぎりて草堂の壁に題す)です。
禾原・永井匡温(久一郎)は嘉永五年(1852)尾張・名古屋に生まれ、詩は森春濤、大沼沈山に学び、後に舅父となる漢学者・鷲津毅堂に随って京都、江戸に出、昌平黌に学ぶ。明治初年(1871〜73)にアメリカ留学、帰国後文部省、内務省に奉職、官は文部省会計局長に至る(このため「禾原侍郎」と号することもある)。日本郵船上海支店長・横浜支店長等を務め、明治三十七年(1904)辞職、随鷗吟社を設立す。プロの漢詩人です。
大正二年(1913)病により没。
息子が荷風散人。