暑くなってまいりました。ほんとにバテてきた。え? 北海道では雪? そんなバカな・・・。
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そんなバカな、と思うようなことがどこかで起こっているのがこの世の習いにございます。
五胡十六国の混乱をまがりなりにも治め、華北をほぼ統一して江南の宋(劉宋)と相対し、「南北朝」と言われる時代を開いたのは「北魏」の道武帝(拓跋珪。在位386〜409)でございますが、この方、
専以刑殺為政令。
専ら刑殺を以て政令と為す。
刑罰として即座に人を殺すこと以外に政治というものはない、と考えていた。
というご立派な方だったのでございます。
拓跋氏は北方のモンゴル系といわれるウラル=アルタイ語族ですから、シャーマン信仰を持っていた。
嘗神巫謂、帝当有暴禍。
嘗て、神巫謂えらく、「帝、まさに暴禍有るべし」。
ある時、シャーマンが神がかりして託宣した。
「きー! 帝よ、おまえにはやがて突然の死があるであろう!」
帝、シャーマンに問うて曰く、
「ま、免れる方法は無いのか?」
シャーマン曰く、
惟滅清河、殺万人、乃可免。
これ清河を滅ぼし、万人を殺さば、すなわち免れんのみ。
「きー! 清河を滅ぼせ。万人を殺せ。そうすれば何とか免れることができようぞ!」
この託宣を信じた帝は、清河郡(今のペキンあたり)に軍を派遣し、何の罪も無い郡民たちを殺戮した。
帝は何人を誅殺したか知りたがった。
「必ずや万人を殺せ」
前線の将軍たちの報告をすべて加えれば一万ははるかに超えたが、それは統計上の清河の郡民の数も超えていた。
「やつら、虚偽の報告をしておるのじゃ・・・。信用ができぬ・・・」
かくて帝はあることを決めた。すなわち、
手自殺人、欲其数満万。
手自ら人を殺し、その数を万に満たさんと欲す。
自らの手を下して人を殺し、それによって一万の数を満たそうとしたのである。
かくして帝のまわりは死者であふれることとなった。
例えばこんなエピソードがある。
乗輦手剣撃擔輦者脳。
輦に乗ずるに、手ずから輦を擔(かつ)ぐ者の脳を剣撃す。
外出の際には貴人であるから輦台(要するに御神輿です)に乗る。皇帝ですからおそらく16人担ぎぐらいの大きな輦なのだが、帝は、輦を担ぐ者のうちの一人を無作為に選んで、そいつの頭を手にした剣で斬るのである。
「ぐしゃり」と頭は潰れ、脳みそが飛び出して、やられたやつは死ぬ。
死ぬと倒れます。
すると輦の横を並行して歩いている別の担ぎ役がそこに入る。(←「博多山笠の原理」である)
こうやって
一人死、一人代、毎一行、死者数十。
一人死なば一人代わり、一行するごとに死者数十なり。
一人が死ぬと一人が代わっていき、一たび外出するごとに数十人が死ぬのである。
それでも数十人だ。
「もっと・・・、もっと殺さねばならぬ・・・」
帝は焦っていた。
むかしからの功臣たちを宮中に呼び出す。
そしてその功績を褒め上げ、その後で、わずかな旧悪を唱え、
輙殺之。
すなわちこれを殺す。
すぐにこれを殺した。
それを廻りで見ている廷臣たちも、
或以顔色動変、或以喘息不調、或以行歩乖節、或以言詞失措、皆以為懐悪在心、変見於外、乃手自殴撃。
あるいは顔色ややも変じ、あるいは喘息調わず、あるいは行歩節に乖(そむ)き、あるいは言詞措を失えば、みな以て心に悪を懐き、変の外に見(あらわ)るなりとして、すなわち手自に殴撃す。
ある者は「顔色が少し変わったぞ」。
ある者は「呼吸の調子が変だぞ」。
ある者は「歩き方が決まり通りでは無くなったぞ」。
ある者は「言葉づかいがおかしい」。
といった点を指摘され、「これらは悪いことを心に抱いたゆえに、それが外見に現れたのだ」と決めつけて、おん自ら殴り殺しになられた。
見せしめの意もあり、
死者皆陳天安殿前。
死者はみな天安殿前に陳(の)ぶ。
死者たちは(遺族に引き取らせず)、宮中正殿である天安殿の前の広場に並べておかれたのである。
屍は腐敗し、宮中にはその腐臭と死体に集る虫たちの群れが漂っていた。
その殺伐たる状況の中で
愛妾の一人が息子の拓跋紹と密通している、という噂が帝の耳に入った。
「なあーーーにいーーー?」
帝はすさまじい憤怒の表情のまま、笑い始めた。
「殺せ、殺せ、殺せ、ひひひ、殺せるー! 殺せるのじゃー!ひっひっひっひーーー」
帝の行動はすでに側近たちの恐れるところとなっていから、宦官の一部は帝の命令を拓跋紹に密かに告げた。
紹、ここにおいて宦官らの協力を得て、先手をとって
弑帝。
帝を弑す。
帝をお殺し申し上げた。
帝は、複数の宦官に抑え付けられ、拓跋紹の手にする短剣を首に当てられ、
臨死始悟、在此二人也。
死に臨んで始めて悟る、この二人に在るなり、と。
死の直前になってはじめて理解したのであった。「そうか、おまえたち二人のことだったのか!」と。
すなわち拓跋紹は「清河王」に封じられており、また問題の愛妾はその名を「万年」というたのである。
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はははは。おかしな話だなあ。「北史」道武帝本紀より。ただし文章は「二十二史劄記」巻十四所引のものを用いた。
さてさて、北魏の皇帝は、このあとも代々のお方がずいぶんと殺しているのでございますよ、ひっひっひ。
ああ、こんな話ばかり読んで暮らしていたいものじゃ。ようし決めた、もう明日から会社になど行くものか!