肝冷童子からの連絡が昨日から来なくなっております。ので、古代からの御報告ができません。
代わって沖縄から肝冷斎族の一人であるわたくしが御報告をいたします。
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さて、17世紀初めの袋中上人の「琉球神道記」巻五によりますと、沖縄ではキミテズリという神様が出ますときには国頭地方の山に「あをり」(傘)が出現するのだそうでございます。この山を「アヲリ岳」といい、これは「琉球国由来記」に辺戸村のアフリ嶽のことだと言うているから、まさに安須森御嶽のことである。
この山に出る「あをり」傘は
五色鮮潔にして種々荘厳なり。三の岳に三本也。大にして一山を覆ひ尽す。
五色が色鮮やかで清潔で、たいへん美しく厳かである。山には三つの峰があるのだが、その峰ごとに三本の「あをり」傘が出現する。巨大な傘であるので、山は覆いつくされてしまうのである。
というほど立派なものだそうです。
この現象は「そのことが起こるべきとき」の、八月から九月にかけて起こり、一日しか見ることができない。八月九月に出ないときは、十月に必ず出る。これが出ると、辺戸の村びとは飛脚を立てて首里の王府に奏上する。
すると、お迎えのお祀りをいたします。
神女(ノロ)たちと行政官たちはみな同じ衣裳を着て、鼓を打って歌をうたうのだそうで、これを「龍宮様」(竜宮式のやりかた)といっている。
王宮の庭を会所とす。傘三十余を立つ。大は高きこと七八丈、輪は十尋余。小は一丈許(ばかり)。
王城の庭を祭りの場所とし、傘を三十本以上立てる。傘の大きさはまちまちであるが、大きいのは高さ20メートル余、笠の部分が直径20メートル余り。小さいのでも高さ3メートルぐらいである。
「会所」といっているのですから、そこにキミテズリさまにお見えいただく、ということなのであろう。
さてさて、ある本土の人が問うた。
此国の神威新たならば、渡唐船何ぞ覆(くつがえ)るや。
沖縄の神キミテズリは出るべきときに現れて神の力を新しくもたらすということだが、それなのにチュウゴク行きの船が難破することがあるのは、なぜなのだろうか。
地元の人たちはみな、正しく答えることができなかった。
そこでわしが代わって答えてやったのである。
神力も業力に勝(まさ)らずとなり。凡夫の自業自得果也。仏すら三不能とて業力を転じ給玉(たまいたま)はぬとぞ。
神の力も「業」(カルマ)の力にはかなわないのじゃよ。難破するのは、(神の力が足らないのではなく)船に乗っていた凡夫たちの自業によって自得した結果なのだ。「業」によって因果として起こることを変える、というのは、ホトケさまでさえおできにならない「三つのできないこと」の一つなのじゃからな。
みんな、なんとなくわかったような顏をしておりましたわい。がっはっはっはー。
以上。―――ん? 「三不能」(三つのできないこと)とは何か、とご質問ですか?
「景徳伝燈録」(元珪伝)にいう、
仏能空一切相、成万法智、而不能即滅定業。仏能知群有性、窮億劫事、而不能化導無縁。仏能度無量有情、而不能尽衆生界。是謂三不能也。
仏はよく一切の相を空にし、万法の智を成せども、定業を即滅することあたわず。仏はよく群有の性を知り、億劫の事を窮むるも、無縁を化導することあたわず。仏はよく無量の有情を度するも、衆生界を尽くすことあたわず。これを「三不能」と謂うなり。
ホトケさまはあらゆる現象を空虚と知り、すべての理法を成就することができるが、すでに定まった「業」(カルマ)を即座に消すことはできない。
ホトケさまはすべての存在者の本性を知り、それらの一億劫も先までの将来を予知しきることができるが、まだその時の来ていない魂を救いの方向に向けてやることはできない。
ホトケさまはいずれはすべての存在者を救うことができるが、存在する場所である世界を無くしてしまうことはできない。
これを「三つのできないこと」というのである。
わかりまちたかー?
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ちなみに、キミテズリさまが出るべきとき、というのはどういうときのことなのか。これには袋中上人は触れていません。
そこで百年ほど後の蔡温らの「中山世譜」(巻一)を閲するに、
君手摩神者天神也。 君手摩(キミテズリ)の神なるものは天神なり。
とあり、その割注に以下のように解説してあった。
此神乃国君登位承統、則一代一次出見、祝国君万歳之寿、二七日詫遊。至今相伝御唄者乃其時之詫宣也。
この神すなわち国君の位に登り統を承(つ)げば、すなわち一代一次出見し、国君の万歳の寿を祝して二七日詫遊(たゆう)すなり。今に至るも相伝う「御唄」なるものはすなわちその時の詫宣なり。
この神様は、国王が位に登り、王統をお継ぎになることがあれば、その一代に一度を限って御出現なさるのである。
この神は、新たに即位した国王の寿命が一万歳もあるようにと予祝して、14日間の間、(神女に)託されて御活動なさる。ゲンダイにまで伝わっている「御唄」(おもろ)という神謡は、こういうときに神女からあった託宣なのである。
王さまの代替わりの時に出る―――沖縄のような「易姓革命」のありえた政体では、逆にいいますと、これが出たら新しい王さまは正統な王さまだ、ということになる―――ということになっていたようです。
ところで、沖縄の神様の出現というのは、現象としては神女が何物かに憑依されて自ら神であると名乗る形で現れるのですが、神様がそのひとに憑くのでなく、憑いている間のその神女そのものが神様である、と認識されるみたいなんです。ほんとに現人神なんです。神様の言うことを聞かないニンゲンはいませんから、信仰が生きていた間は神女さまのお力にて、王様の差し替えぐらいたやすくできたんではないかとさえ思われます。
「おもろ」にも当たってみたくなってまいりますが、わたくしはシゴトの無い肝冷童子ではなく悲しき「宮仕え型」肝冷斎の一人でございます。平日でもございますので、今日はここまでとさせていただきます。
・・・・・それにしても肝冷童子(と同行した南郭子綦さん)は心配ですね。心配といえばミサイルも心配だ・・・。