今日はそこそこよかったのですが、途中で重い宿題が来て○にたくなり、最後にどかんという宿題が来ていよいよ○なねばならない状況です。ビョウキ抱えているんだからやめてくださいよ。
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久しぶりで「論語」の話をしましょう、と思っておりました。
雍也篇に「井有仁章」という一節があります。
孔子の弟子中、(「論語」の中では)孔子から非情な合理主義者として嫌われている(と伝統的に解されている)宰我が、あるとき孔子に問うた。
仁者、雖告之曰井有仁焉、其従之也。
仁者は、これに告ぐるに「井に仁有り」というといえども、それ、これに従うや。
「仁のある方は、その人に「井戸に「仁」が落ちております」と告げたら、「わかった!」といって井戸の中に入っていくものなのでしょうか」
「仁者は優しいひとだ、ということですが、自分で井戸の中に入って行くのは正しいとは思いません。もっとなすべきことがあるはずです。」
というのである。
これに対して孔子答えて曰く、
何為其然也。君子可逝也、不可陥也、可欺也、不可罔也。
何すれぞそれ然らんや。君子は逝かしむるべきなり、陥らしむるべからざるなり。欺くべきなり、罔(くら)ますべからざるなり。
「どうしてそんなことになるのだ! 立派な人は(そう言われれば心配して井戸端まで)行かせることはできるだろう。しかし(状況判断はきちんとできるので)井戸の中に入らせることまではできないのだ。立派な人をだますことはできるだろう。しかしだましとおすことはできないのだ」
・・・と、仮定の極論で理屈ばかり言う宰我をたしなめたのだ、ということでございます。
ああ勉強になった、それではみなさんは寝てください。
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わたくしは気になってしかたが無いことがあります。
「井戸に「仁」が落ちている」の「仁」はどんなモノをイメージしているのだろうか。孔子が「「仁」というモノが井戸に落ちているわけないだろうが」と反論してくれていればいいのですが、そんな反論をしていないので、孔子も「仁」を「井戸に落ちることがありうるもの」と理解して議論しているらしい。
う〜ん、この「仁」とは何物ぞや。
実はこの悩みはわたくしだけのモノではないのでして、古来多くの人が悩んできた。
簡単にまとめますと、三つの説があります。
@
唐代以前は、「仁」の下に「人」が脱落している、と説明された。
「井に仁人有り」=「井戸に立派な人が落ちています!」
仁者は立派な人が落ちているのであれば助けに行こうというキモチになるであろう。
この説明には有力な批判がありました。
すなわち、皇侃の「論語義疏」によると、
或問曰、仁人救物、一切無偏、何不但云井中有人。
或るいは問いて曰く、仁人の物を救うや一切無偏なり、何ぞただ「井中人有り」と云うのみならざるか。
ある人が質問した、「仁」のある人が他のものを救うのに、不公平があるはずがない。どうして「井戸の中に人が落ちている!」と言わずにわざわざ「立派な人」と言わなければならないのか」と。
ということで、
A 有力な反対説に「仁」は「人」に作るべし、という説明があった。実は、宋の朱子もこの考え方である。(「論語集注」)
「井に人有り」=「井戸に人間が落ちています!」
こう言われれば、仁者はその人を助けに行こうというキモチになるであろう。
この説明に対して、@の側からは再反論があって、
仁者能好人能悪人、其雖惻隠済物、若聞悪人堕井亦不往也。
仁者はよく人を好み、よく人を悪む、それ惻隠して物を済(すく)うといえども、もし悪人の井に堕ちたりと聞かばまた往かざるなり。
仁あるひとはどんな人にも優しいのではなく、善い人を好み悪い人をにくむことができる、と言われる。だから、心にかなしみを覚えて他者を救おうとするとしても、井戸に落ちたのが悪の人間だと聞いたら、救いに行こうとはしないのだ。
「だから、「井に仁人有り」とする方が正しいのである」
という。(皇侃「義疏」)
これにはまた、「いやそれは仁の本来の姿ではない」とか「それだとすでに「私」の心があるからいかんのだ、そんなことも知らんのか」だとか、いろいろ反論があります。
この二説に対して、
「もっと論語の本文に忠実になろうよ」
という人もあって、
B
「仁」と書いてあるのはそのままでよいのだ。井戸には「仁」が落ちていたのだ。
「井に仁有り」=「井戸に「仁」が落ちています!」
仁者はそれを救いに行こうとしたのである。
このBには二つの説明がありまして、
@)「人を救うこと」が「仁」なのだ。(「論語述要」の説)
仁者の志は人を救うことであり、それが「仁」である。「井に仁有り」といって「人」と言わないのは、「仁」の中に「人を救う」という意味がもう備わっているからだ。
A)宰我の質問は「仁」を井戸の中に入ってでも求めるべきなのかどうか、と問うているのである。いいかえれば、
蓋謂、仁者勇於為仁、設也於井之中而有仁焉、其亦従之否乎。
けだし謂うに、仁者は仁を為すに勇なり、設うるや、井の中において仁あれば、それまたこれに従うや否や。
「仁あるひとは仁をするのに勇敢である」というが、たとえば井戸の中に「仁」があるといわれれば、やはりその言葉にしたがって井戸の中に行くものなのでしょうか。
と質問したのだ。これに対して孔子は、「そこまで極端なことを考える必要はない」と諭したのである。(「群経平義」の説)
このA)の説には本朝の荻生徂徠先生に別説があります。
徂徠先生によれば、
宰我井仁の問いは、孔子の禍いに陥いらんことを慮ぱかり、しこうして微言を以てこれを諷するなり。・・・・「井に仁あり」は仮設の言。けだし険難の中に、仁を為すべきの事あるを言うなり。・・・・孔子は宰我の微意の在るところを知る、ゆえにこれを承くるに「君子」を以てす。
宰我の「井戸に仁が」の質問は、孔子が実際に何らかの政治的なワナにかかりそうになっていることを心配して、たとえ話としてそのことを微かにわかるように言ったのである。・・・・「井戸に仁があるとしまして」というのは仮定の言葉だ。井戸という困難な状況の中で、孔子が「仁」をなそうとしている、一心に行うと井戸に落ちてしまいます、と告げているのである。・・・・・孔子の方も宰我が微かにわかるおうに言っているのが何のことなのかがわかったので、回答では宰我の質問にあった「仁者」でもなく、いつもの一人称「丘也」(丘は孔子の名前)でもなく、わざわざ「君子」(政治的な地位のある人)という言葉を使ったのである。(自分が政治的に無茶はしない旨を暗に答えたのだ。)
ほんとかなあ。徂徠先生はいつも「見て来たようなこと」を言うからなあ。
C なお、@の別バージョンとして、我が国の足利学校に伝わっている古い「論語」のテキストでは「仁」の後ろに「者」と書いてあるよし。
「井に仁者有り」=「井戸に(あなたのような)仁者が落ちています!」
仁者は必ず助けに行くであろう。
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勉強になりましたねー。
さて、ここで問題。
朱晦庵先生の「論語或問」にこんな問題が載っている。
問、往視而井実有人、則如之何。
問う、往きて視るにまことに人有り、すなわちこれを如何せん。
質問。「井戸に人が落ちています!」と言われて井戸まで行ってみたら、ほんとうに人が落ちている。さあ、おまえはどうするのだ?
みなさんは、どうしますか? 理屈をこねるのではなくて、自分の右手と左手で、あるいは足で口で何をどうするのか、何を優先し何を後回しにするのか、ほかに大事なしごとを抱えているときはどうするのか、年老いた親がいるときはどうするのか・・・。考えてみてください。これが朱子らが言った「実学」ということですよ。