お東京をはじめとする各地で雪でたいへんだったんざますってね。
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今日は雪にちなみまして。
唐の末から五代にかけて、すなわち九世紀の終わりごろから十世紀、伝楚という僧侶がおりましたそうな。
ある冬の日、師匠が突然問うた。
汝去什么処来。
汝、什么(いずれ)の処を去りて来たる。
おまえは、どこから来たんだったっけな?
伝楚は答えた。
掃雪来。
雪を掃き来たれり。
雪を掃いてきたところです。
質問をはぐらかした?
師匠は無表情に問い返した。
雪深多少。
雪深きこと多少なりや。
雪はどれぐらい深かったか。
伝楚答う、
樹上総是。
樹上すべて是れ。
木の上まですべて雪でした。
ふむ。師匠は無表情に頷いた。
このとき、この場所、この二人の間では、おそらく「雪」は人としての欲望・煩悩とか、現世のしがらみとか、世間一般の常識とか、とにかく棄て去ってしまわねばならないものを言ったのである。それも、最初から示し合わせてそうしたのではなく、会話の途中から二人の会話の「息」がぴたりと合ったのだ。「以心伝心」の一瞬である。その瞬間、ひとは喜びに「拈華微笑」するのである。
師匠言うた、
得即也得。汝向後有山、住个雪窟定矣。
得るや即ち得るなり。汝、向後山有れば、个(こ)の雪窟に住むや定まれり。
どうやらわかったことはわかったらしいな。ただし、おまえは今後、どんな立派な寺に暮らすとしても、その雪の中に穴を掘って棲んでいるのだ、ということを忘れてはならない。
これは「かまくら」ですね。
いかに悟境を得たとしても、あるいはそれゆえにこそ、ニンゲンの欲望やら何やらのドロドロのど真ん中でドロドロを受け止めて、そのドロドロに守られながら、生きていくしかないのである。ドロドロの中は案外暖かいのでしょう。みなさんも雪まみれで足をとられながら、もがいて生きて行くしかない。その真っただ中で、どうやって精神の清浄を保つのか。それが修行である。(わしは南嶋でシアワセにやっておりますが)
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「景徳伝灯録」巻二十より。ちなみにこの師匠は楽普元安というひと。