まだまだ三が日にございまっちゅ。
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こりゃまた有名な方に来ていただきまちた。
十五家兄随父亡、 十五、家兄は父に随いて亡じ、
医林継職杏花場。 医林職を継ぐ杏花場。
向人謾称医天下。 人に向かいて謾(みだ)りに称す、天下を医せんと。
胸憶不畜療人方。 胸憶には蓄えず、人を療すの方を。
わしが十五歳のとき、兄上はおやじどのと続いて死んでしもうたのじゃ。
そこでわしはこの杏の花に飾られた代々の医師の家を継いだのであった。
まわりのひとにはようも言うたことに「わしは天下を治すんですわ」と。
胸の中に一人一人を治す方法は一つも覚えておりませんでした。
医学も勉強してほちいものでちゅね。
なお、医者の家には杏の花林(「杏林」)がある、というのは「杏林」でグーグルしてもらうか、杏林大学のHPを調べてみてくだちゃーい。
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今日は大有名人は一昨日の高杉東行先生にご紹介いただきまちた。
さんでございまちたー。
まだバリバリの徳川時代であった元治元年(1864)に蛤御門の変の失敗に殉じて自刃されましたある種テロリストでございまちゅね。
久坂玄瑞さんは萩藩の藩医の家に生まれたひとなのですが、安政元年(1854)十五歳のときに兄の久坂玄機(←大阪で適塾塾頭まで務めたひとであったという)とおやじを一週間のうちに続けて亡くしまして藩医の家を嗣ぐことになり、医師名として「玄瑞」と付けた、ということである。上記の詩は安政四年(1857)に著した「丁巳鄙稿」中「有感」(感じたことがあるのです)。このころ、玄瑞は医家の嗣子として医学を学びながら国事を憂いておったのでありまちた。同年冬には吉田松陰さんの実妹をヨメにもらいまちゅそうなの。大人になっていくのね。