うわあ。もう四日でちゅう。し、しごとが・・・。
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「時の過ぐるは速いものじゃ」
と先生はおっしゃった。
さらに言う、
―――むかし、時を測るに水を以てしたころ、この水時計(「漏刻」)には時を知らせる人形がついていた。人形は流れる水によって動かされた歯車によって動き、ある刻限にちょうど彼の軌跡の頂点まで昇り、そこに取り付けられた鐘を叩く仕組みであった。(諏訪だかどこかに漏刻の実物が復元されていた記憶があるが、いずこであったか。後でウィキペディアで調べてみまちゅる)
漏刻之人、受命於水。水涸則降。
漏刻の人は水に命を受く。水涸るればすなわち降る。
水時計についている人は、水に生かされているのである。水が無くなれば動くこともできず低い位置に止まったままだ。
今度は「回り灯籠」(「影燈」)を思い出してください。回り灯籠は灯影のまわりに画像を回らせることによって、移動する影絵を映し出す。
影燈之人、受命於火。火熄則止。
影燈の人は火に命を受く。火熄(や)めばすなわち止まる。
回り灯籠に映し出される人は、火に生かされているのである。火が消えれば動くこともできずじっと止まったままだ。
ああ、いずれも
其昇降動止有制之者也。
その昇降・動止のこれを制する者有ればなり。
彼らの昇ったり下ったり動いたり止まったり、について、これらをコントロールするモノ(水と火)があるのだ。
―――自分で自分の生き方を判断できないやつらはダメですなあ。
―――わはははは。
―――おほほほほ。
と、今、みなさん笑いませんでしたかな?
ところが、
人之在声華勢利亦然、得則神王、失則気汨。
人の声・華・勢・利にありてもまた然り、得ればすなわち神王にして失えばすなわち気汨す。
われらニンゲンの名声、繁華、勢力、利益といったものについても同じではございませんか。これらも外部のものであるのに、これらを得た者は己れを神とも王者とも思い高ぶり、失った者は気力も萎えてしまうではないか。
おやおや、ニンゲンも人形たちとおんなじで、
制在外也。
制は外に在るなり。
外にコントロールするモノがあるのですなあ。
けっけっけっけ。
ああ、可笑しい。
惟立命在我而不為外物所制、幾於道矣。
これ立命我にありて外物の制するところと為らざるは、道に幾(ちか)いかな。
自分の中に自分に命を与えるものがあり、外のものにコントロールされているのではない、という人だけが、もうこれはほとんど「道」に近いところにいる、というべきでありましょう。
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明・于慎行「穀山筆麈」巻十六より。
新年早々、于先生のイヤミでございましたよ。しかし、それもこれもみなさんに早く真実に気付いていただきたい、という親心でございます。
わたしも「四日」と聞いて、「わ、しごと始めだ!」とびっくりしてしまうところでした。しかし、大丈夫。わたしは今年から外のものにコントロールされることはもうありません。すぐに「まあいいや。もう仕事行かないんだし」と思い直しました。もう叱られたりするのイヤだし。