今日は久しぶりで出社。先週「もう辞める」と言明して以来の出社なので、ちょっときまり悪い。しかしまあもう四日も前の古いことだ。
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金の世宗の大定年間(1161〜1189)、洛陽郊外に白神官(白が姓である)という者があって、不思議のわざを為したので、近在数百里の間、彼に帰依しない者はなかった。
その術は、
○平地起龍巻。(平地に竜巻を起こす) ・・・突然旋風を起こすことができた。
○袖出金手。(袖より金手を出だす) ・・・袖口から黄金製の手を出した。
○端坐見仏像、光怪奪目。(端坐して仏像を見るに、光怪目を奪う) ・・・仏像の前に正座したところ、その仏像が目を眩ますような光を放ち始めた。
というようなもので、人民たちはこれらの奇蹟に心服して
莫有忤其意者。
その意に忤らう者有るなし。
誰一人として白神官の考えに否を唱える者はおらず、みな言いなりになっていたのである。
そんなとき、この地に王某という若い主簿(文書担当の役人)が赴任してきた。
王はしばらく白神官の行動を調べていたが、やがて、「白神官の言行は人民を過つものである」と主張して、その身柄を逮捕してしまった。
人民たちは白を釈放するように騒ぎ立てた。すると、王主簿は人民たちの見守る前に白を引き出し、
問所以能怪変者。
よく怪変する所以の者を問う。
どうして不思議なことを為すことができたのかを詰問した。
白は、にこやかに
天神所為。
天神の為すところなり。
「天上の神霊のお導きにより」
と答えるばかりである。これを見て、人民たちは
「天神さまの意を受けた白神官を捕らえるとは許せぬ」「悪逆官僚よ、今に見ているがいい」
と聞えよがしに声を上げる。
「白よ、わしの目が節穴と思うてか!」
王主簿は白の前に、一個の陶製の壺を持ちだした。
「そ、それは・・・」
白の顔色があおざめた。
王曰く、
「おまえの家の地下を掘ったところ、この壺を発見した。この中にはずいぶんオモシロいものが入っておるぞ。教えてやろうか」
白は無言である。
王曰く、
得狐涎。
狐涎を得たり。
「入っていたのは、狐(コ)のよだれであろう?」
「むうう・・・、そこまで御存じか・・・」
何にどう使っていたのか知りませんが「狐」の排泄物を使っていたのです(いつも申し上げておりますが、伝統チュウゴクにおける「狐」は「キツネ」というドウブツではなくて「狐」(コ)という精霊だと思ってください)。
これによって、その術は邪悪なものと知れた。これまで白に心服していた人民たちもこれを聞いてみな色を作し、
「なんてことだ!」「おらたちは騙されていたのだ!」
と白を罵り始めた。
手をひるがせば雲となり、手をくつがせば雨となる。輿論の恃みがたきこと、いにしえより今に至るまで論ずるを俟たない。白神官はついに輿論の支持を失ったのである。ここにおいてついに、
神官乃伏罪。
神官すなわち罪に伏す。
白神官は観念して、罪を認めたのだった。
王、断罪して
決杖二百。而死、県境為之粛然。
杖二百に決す。しかして死し、県境これがために粛然たり。
白を、二百回杖で撃つ刑に処した。白神官はこの刑の執行中に死んでしまい、その後、管轄の区域の人民たちはすっかり静かになった。
のであった・・・・・・。
―――はあ。それで?
と思うかも知れませんが、これが今から四十年ほど前のこと。この事件は当時たいへん大きな反響を呼んだ事件だったのでございます。
この王主簿は実は、わたくし(←肝冷斎にあらず、遺山先生・元好問、字・裕之なり)の母方の祖父でありまして、それほど出世せずに死んでしまったのでわたくしは親しく教えを受けたことは無いのでありますが、若いころ道士になろうとして学んでいたので、白の術の妖しいのに気づいたらしい。それにしても「狐涎」がどんなものか知っていたなんて、大したものです。わたくしも遺伝的なものなのか、ずいぶん道教系のことが好きでいろんな妖しい事件を記録していますが、いまだ「狐涎」の実物は見たことがありません。
わたくしは金の滅亡(1235)に伴って、この洛陽の町に出てきたのでしたが、
父老尚能言君是杖殺白神官王主簿子孫乎。
父老なおよく言う、「君はこれ「杖殺白神官」の王主簿の子孫なるか」と。
そのころでもまだ、近在の長老たちに
「おまえさんは、「白神官、杖ぶっ殺し事件」のあの王主簿さまの孫なのか」
とよく問われたものでございました。
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金〜元の大詩人・元好問「続夷堅志」巻一より。そういえば今年は沖縄復帰40周年ですが連合赤軍あさま山荘事件からも40年でした。40年経つとかなりの確率でその時以降生まれたひとが半数を超しますから、もう「歴史」の世界の古い話になりますね。中沢啓二さんも亡くなったなあ・・・。 え? 日中国交正常化からも40年?