明日の15時(日本時間)から72時間以内にマヤ暦の大みそか。世界終末するとの説あり。とにかくまた来週になるのイヤなので、頼みますよ。
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むかし、いずれの国のことであったか、西門公子(西門の方に住むわかさま。以下、毎回漢字変換するのめんどっちいので「タコヤキ」と言い換えます)は食客を大切にしたから、その門には常に数百人の士が集っていたという。
公子出、則韝鷹挟弾、操竽瑟而従者塞路。
公子出づるに、すなわち鷹を韝(こう)し、弾を挟み、竽瑟を操りて従う者、路を塞げり。
タコヤキが外出するときには、鷹狩りのための鷹を韝(ゆごて。鷹を止まらせる籠手)に止まらせ、狩猟のための投げ球を腰につけた粋な姿で、笛や琴を奏でてにぎやかにタコヤキに付き従う者で、道路はいっぱいになったものである。
いくばくも無くして、タコヤキは貧しくなり、食客たちに食べさせておくことができなくなった。
さて、ちょうどこのころ、北里王孫(北の町に住む若旦那。以下「イカメシ」と言い換えます)は
暴富、富於公子。故公子門下客皆去而事王孫。
暴富し、公子より富めり。故に公子門下の客、みな去りて王孫に事(つか)う。
急激に豊かになって、タコヤキより富むようになった。そこで、タコヤキのもとにいた食客たちは、みなそこを去ってイカメシのもとに移った。
そして、
王孫出、則韝鷹挟弾、操竽瑟而従者塞路。
王孫出づるに、すなわち鷹を韝(こう)し、弾を挟み、竽瑟を操りて従う者、路を塞げり。
イカメシが外出するときには、鷹狩りのための鷹を韝(ゆごて。鷹を止まらせる籠手)に止まらせ、狩猟のための投げ球を腰につけた粋な姿で、笛や琴を奏でてにぎやかにイカメシに付き従う者で、道路はいっぱいになったのである。
このイカメシの行列の前から、一人タコヤキが歩いてきた。
イカメシの従者たちは言う、
「イカメシさまのお通りだ、そこのタコヤキよ、道を譲れ」
タコヤキは答えた、
「何をいうか、この道は誰の物でもない、みなのものだ。おまえたちはこの間までわしに寄食していた者たちではないか。イカメシ一行こそこのタコヤキのために道を譲るがよい」
かくて道争いになり、
客之従王孫者、關弧而射公子、公子蹀履而走。
客の王孫に従う者、關弧して公子を射、公子、履を蹀して走れり。
イカメシの食客たちは、タコヤキを半円形に取り巻いて弓で射かけたので、タコヤキは裸足になって逃げだしたのであった。
これを見て、イカメシは大喜びして言う、
甚哉、客之忠也。関弧而射公子、公子蹀履而走。
甚だしいかな、客の忠なるや。関弧して公子を射、公子履を蹀して走れり。
「たいへんわしに忠義な食客たちであることよ。タコヤキを半円形に取り巻いて射かけたので、タコヤキは裸足になって逃げだしてしまったわい」
そして、千金を出だして食客たちのために宴席をもうけたのであった。
このとき、漢陰丈人(漢水の南側に住む老人。以下「アナゴズシ」)がやってきて、イカメシに諭した。
比従王孫而遊者、非故西門客耶。然而関弧射其故主如越人者、利王孫之金。
このころ王孫に従いて遊ぶ者は、故(もと)の西門の客にあらずや。しかして関弧してその故(もと)の主を射ること越人の如きは、王孫の金を利とすればなり。
最近、イカメシさまに従うようになった者たちは、以前タコヤキさまの食客だった者たちですぞ。彼らが半円形に取り巻いてもとの主人であるタコヤキを、まるで遠い地方に住む他人である越国のひとであるかのように弓で射かけたのは、ただイカメシさまの保有するお金が魅力だから、です。
君之金今日尽、則明日折而之他、又何愛咫尺之矢、不以加君於十歩之内而博人之千金耶。
君の金、今日尽きなば、すなわち明日折して他に之(ゆ)き、また何ぞ咫尺の矢を愛(お)しんで、君に十歩の内より加えて人の千金を博せざらんや。
あなたのお金が今日無くなってしまったなら、彼らは明日にはあなたのもとを辞して他のひとのところに行ってしまいましょう。そして、どうしてわずか八寸(=咫)とか一尺の長さの一本の矢を惜しんであなたを十歩の近距離にまで取り囲んでも矢を射かけない、ということがありましょうか。その矢を射かければ新しい主人の千金のお金で宴席をもうけてもらえるというのに!」
「むーん」
イカメシはその語を聴き、ついに大いに悟るところあって、食客たちにひまをとらせ、身は隠者の生活に入ったのであった。
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失礼。アナゴズシを言い替えた意味がありませんでした。
明・于慎行「穀山筆麈」巻十六より。
これは明の于先生が先秦の文章を真似て作った何かの教訓らしいですから、どうぞみなさん朝礼とか結婚式の挨拶などで使ってみてください。どういうときに使えるのかな? 今度の大臣が・・・? 早く考えないと世界の終末までに間に合いませんよ、わははは。今日辞表出してきた。おさらば、おさらばでございます。