なんとか今週も週末。地震とか津波とかミサイルとかいろいろある週末だけど。
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五代の戦乱はようやく収まりつつあったが、なお北宋帝国の基礎の固まらぬ開宝年間(968〜976)の終わりごろ。
陝西・鳳翔府の民・張守真の家に
有神降。
神の降る有り。
神がお降りになった。
そこで張守真は道士の服を買い求め、この神を祀ることとした。
毎神欲至、室中風蕭然、其声如嬰児、守真独能弁之。
つねに神の至らんとするや、室中に風蕭然として、その声嬰児の如く、守真ひとりよくこれを弁ず。
この神が出現されようとするときは、部屋の中にひややかな風が吹き、赤ん坊の何か言うような音が聞えるのである。そして、守真だけがその音を聞き分け、ほかの人のわかる言葉に直すことができるのであった。
遠近の人民が集まり、多くのことをその神に問うたが、神の答え(守真の聞き分けた)は多く正しかったので、大いに評判となった。
ついに時の太祖皇帝・趙匡胤、みやこ開封に神と張守真をお召しになり、宮中・滋福殿にて神降ろしをさせた。
政略ともに優れた用兵家であった太祖皇帝も、すでに何か神秘のものに頼らねばならぬ心身の事情があったのであろう。開宝九年(976)10月19日の宵のことである、という。
張守真が祈ると、確かにひややかな風が吹き、かすかに金属がこすれ合うような音が聞こえた。
「あれが神の言葉か?」
太祖皇帝はこの晩、何度も額の汗をぬぐわせるなど、少し疲れているようすであったが、威厳ある声で守真に下問した。
「御意―――。おことばをお伝えいたしまするーー―」
張守真、神のことばを釈して曰く、
晋王有仁心、歴数収属。陛下在天亦自有位。
晋王に仁心あり、歴数収まり属す。陛下、天に在りてまた自ずから位有らん。
―――晋王にぞ王者のこころ。運命により収まるところに収まらん。皇帝陛下は天上にも御座のある。
晋王とは太祖の弟・趙光義のこと、このとき開封尹(首都長官)の地位にあった。
皇帝の側近たちが色めき立った。
張守真の伝えた神の言葉は、太祖の崩御(天上に席がある)と、その後を晋王が襲うことを示していたからである。
「逆賊!」
と守真を取り押さえようとする者があるのを、太祖は押とどめた。そして、守真を睨み据えながら、
「神よ。さらに問わん。
死固不憚、所恨者幽并未併。乞延三数年、俟克服二州、去亦未晩。
死するももとより憚らず、恨むるところは幽・并いまだ併さざるなり。乞う、三数年を延ばして、二州を克服するを俟ちて去るもまたいまだ晩(おそ)からざらん。
死ぬことを恐れるわけではない。ただ、まだ幽州・并州を取り戻しておらぬ。あと二年、あるいは三年ほど命を延ばしていただき、二つの州を取り戻してから地上を去ることにしても、遅きにすぎるとは申されまい。
いかがか―――!」
幽州・并州は今の北京から旅順にかけての地方で、五代の混乱期、石氏晋の時代に契丹族に割譲されていた。この時期、太祖皇帝はその奪還の策を練っていたのである。
張守真、祈りを捧げ、帝の質疑を神に伝える。―――
ややあってまた冷たい風が吹いた。そして、かすかな金属音が聞こえた。
太祖はかすれた声で問うた。
「何とおっしゃったのだ?」
と問うた。
守真、帝に向き直っていう、
「おことばをお伝えいたしますーーー。
天上宮闕成、玉鎖開。十月二十日陛下当帰天。
天上の宮闕成り、玉鎖開かる。十月二十日、陛下まさに天に帰すべし。
―――天上の宮殿すでに完成。玉の錠前外されたり。明日、十月二十日なるかな。陛下は天に御到着。
明日崩ずる、と言うたのだ。しかも、言い終わって、太祖を見つめ、口元に笑みまで浮かべたのだ。
太祖、くわっとばかりに目を見開き、
「きさまは一体・・・」
と指ささんとした刹那、
「!」
太祖は眉間を抑え、無言のままその場にくずおれる。
「陛下!」
側近が助け起こそうとしたが既に意識は無かった。宮中は大騒ぎになり、太祖のからだは奥へと運ばれていく。
この間、即座に守真は捕らえられ、そのまま近衛軍の獄に繋がれたが・・・・
翌二十日。
太祖晏駕。晋王即位。是謂太宗。
太祖晏駕す。晋王即位せり。これを太宗と謂う。
太祖は崩御した。代わって(太子ではなく)弟の晋王が即位した。これが太宗皇帝(在位:976〜997)である。
太宗は守真を釈放し、次いで太平宮を建ててこれに居らしめ、彼の尊崇する神を祀らせた。守真は太宗の孫にあたる仁宗の時代まで生きたが、卒せる後、伝真大法師の号を贈らる。
さて、この事件は宋代には相当有名なことであったらしく、多くの著書に記録されているが、誰もあからさまには言わぬものの、10月19日の夜は、この時期すでに病を得ていた太祖皇帝(とその太子)から帝位を奪うべく、首都の軍権を握っていた弟の晋王が宮廷クーデタを仕掛けた夜であること、張守真はその中で、神の言葉の形で晋王即位の正当性を告げる役割をはたしていたこと、がほぼ明らかである。
それだけでなく、太祖の生命を最終的に奪う何らかの呪法を行うこと、もまた張守真の役割だったというひともある。何故とならば、彼がこのとき宮中に降ろした神は、太宗時代には「翊聖将軍さま」と称されたが、本来の名を
黒殺神
といい、その近づくところに死と疫病をもたらす神であったからである。
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と、宋・張師正の「括異志」巻一に書いてあったよ。ほんとかどうか知らんけど。ただし、「太宗実録」「邵氏聞見録」等を参照した。
さて、週末だ。ゆっくり寝ますよ。まさか休日出勤はありますまい。