うちゅでちゅ・・・。・・・昨日の更新とか読み直すと、別人のようにハイすぎる・・・。
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ニンゲンはイヤです。
明の時代のこと。
江蘇・呉県に昇日南なる僧あり。
善画水仙、兼善音律。
よく水仙を画き、兼ねて音律を善くす。
水仙の画がうまく、また音楽に詳しかった。
というので、風雅な才能があったことが知られる。
永楽年間(1403〜24)には、南京で仏教音楽の演奏をして評判が高かった。しかし、その生活は
犬馬魚鱉之肉無弗食、俳優妓女之家無弗遊。
犬・馬・魚・鱉の肉、食らわざるなく、俳優・妓女の家に遊ばざる無し。
イヌとかウマとかウオ・スッポンの類の肉を食いまくり、劇団の俳優、遊郭の妓女などのところに入りびたりであった。
破戒である。ちなみに、俳優は芸も見せますが、酒色の場を設けホモセクシャルの相手もしたりするのである。
こんな生活で、
長髪為浪子者数年。
髪を長じて浪子となること数年なり。
僧籍に身を置いたまま髪を伸ばし、遊び人となって長いこと暮らしていた。
その後、年老いてまた髪を剃り、呉県に戻ってきて水仙の画を描いて暮らしていた。一時期は尊貴な方々の間でも名が売れていたのだが、徐々に画も描けなくなり、乞食のような生活に堕ちて行ったのである。
その日南は、ある日、突然わし(←肝冷斎にあらず。著者の王リさんなり。王さんは昇日南と同郷で宣徳八年(1433)の生まれであるから、日南より40歳ぐらい若いであろう)の家に現れたことがあった。
その日は臘月(←12月)八日、いわゆる「臘八」の節日にあたり、わしの家は
挙家茹素。
家を挙げて茹素す。
家中、精進料理を作っていた。
なのに、日南は、
痛索酒肉不已。与飲食之而去。
酒肉を痛索して已まず。これに飲食を与えて去らしむ。
酒と肉を強く求めて立ち去ろうとしない。しかたないので(取り置きの)酒と肉類をわたして追い返した。
この時、彼はもう八十いくつであったはず。
しばらくして病を得、手足も不自由で垂れ流しの状態になったということだが、なかなか死ななかった。
すると、彼が画を売って稼いだ金に寄生していた無頼の仲間たちは、日南を
鐍於一室、以飯為団、自穴中抛与。
一室に鐍(けつ)し、飯を以て団と無し、穴中より抛(な)げ与う。
一室に閉じ込め、食べ物を欲しがると、メシを握り丸めて孔から放り込んでやるのであった。
「鐍」(ケツ)は「かんぬき」。ここでは動詞に用いてかんぬきをかけて扉を閉ざすこと。
日南はこの「にぎりメシ」を得ると、
必用手和糞而食。
必ず手を用いて糞と和して食らう。
かならず手で汚物と混ぜ合わせてから、うまそうに食らう。
ということであった。
そのような部屋の中で、
披髪数寸、儼若一獣、終餓而死。
披髪して数寸、儼として一獣のごとく、ついに餓えて死す。
髪をぼうぼうに伸ばして数寸になり、まったくケダモノのようなようすで、最後は栄養失調で死んだのであった。
ひとびと、
信果報也。
まことに果報なり。
「若いころの因果がめぐったのじゃよ・・・」
と噂しあった。
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自然主義文学ですね。ああ。イヤになります。ニンゲンには。絶望。しごと。嘲笑。あいつら。楽になるには? この世から逃げ出すしか・・・。明の王リ(字・元禹、葦庵処士、夢蘇道人と号す)「寓園雑記」巻十より(←23年10月以来の登場)。
しかしながら年八十を越えて髪の毛が数寸伸びるとは、うらやましがるひともいるカモ。