肝冷斎先生はいなくなってしまいました。
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書置きがあって、
已矣乎。 已(や)んぬるかな。
寓形宇内復幾時。 形を宇内に寓するはまた幾時ならん。
曷不委心任去留、 曷(なん)ぞ、心に委ねて去留を任せざる。
胡為乎、 胡為(なんすれ)ぞや、
遑遑欲何之。 遑遑として何(いず)くに之(ゆ)かんとするか。
と書いてあった。
どうしようもないではないか。
生き身のままこの世に暮らしていられるのは、あとどれぐらいであるというのか。
どうして、とどまるのも行ってしまうのも思ったままにしないのであろうか。
何がしたいというて、
こんなにいそいそと慌てて、どこかに行こうとしているのか。
というのである。おそらく、職場でのニンゲン関係に疲れてしまったのでしょうね。
ただし、この書置きは陶淵明の「帰去来兮辞」の一節です。最後まで自分の言葉ではしゃべれなかった肝冷斎先生でした。ふつうのひとは、イヤなら「イヤです、さようなら」と言うのになあ。肝冷斎はそう言わずにいなくなるから、留守番のおいらは会社から
「肝冷斎がまた会社に出て来ないんだけど」
と電話で責められて、
「明日は行きまちゅよ」
と取り繕って、また代わりの木偶(でく)を択んで会社に行かせないとならなくなるのである。
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明日はもう少しやる気のある木偶になれるといいのですが。
伊波普猷「古琉球」(岩波文庫のやつ)、渡辺京二「逝きし世の面影」(平凡社ライブラリーのやつ)読了。後者、明治以前の人民の善良にしてあけっぴろげで好奇心が強くて痴呆のようになんにでも笑う姿、なんとも懐かしい感じがしたが、よくよく考えるとこれは球場(特に外野席)にいるやつらに似ているのだ。