平成24年10月21日(日)  目次へ  前回に戻る

 

調査してまいりました。「あ」と驚き声を失うようなモノも見てしまいました。人生観変わった。しかし明日は会社か。またいつもの仮面つけないとならんのか。

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乾隆三十年(1765)のこと、緬甸(ミャンマー)の木梳蛮が頭目の甕籍牙(おうせきが)の息子・孟駁に率いられて反乱を起こし、九龍江まで攻め入ってきた。

時に雲貴総督の劉公藻は山東・荷澤のひと、もと書生にして軍務を知らず、とにかく大慌てで兵を率いて防御に当たった。

このとき、遊撃将軍(佐官クラス)の何瓊詔は単騎偵察の途中、

与賊遇、為所衝、致迷帰路。

賊と遇し、衝するところと為りて、帰路に迷を致す。

敵と遭遇し、その攻撃を避けているうちに道路を占拠されてしまい、帰り道がわからなくなってしまった。

劉総督は何瓊詔が帰って来ないという知らせを受けて、

「あたら勇士であったに・・・」

と歎じ、

倉卒以陣亡入奏。

倉卒に陣亡を以て入奏す。

確認もせずに戦死したと北京の軍機処(軍令本部)に報告した。

ところが、その数日後、何瓊詔は他の道を探し出して偵察結果を報告しに戻ってきたのである。

「な、なんじゃと! わしは間違った報告をしてしまったのか!」

劉張皇失措、復自行検挙、照臨陣脱逃例、以軍法従事。

劉、張皇として措を失い、また自ら検挙を行い、臨陣脱逃例に照らして軍法を以て事に従えり。

劉はあたふたとどうしていいかわからなくなってしまい、さらに自分で手ずから取り調べを行って、「やはりそうか、敵に攻撃されてそれを避けておったのか!」と突き止めて、「対陣時の脱走罪」を以て軍法を適用し、死罪を命じたのであった。

そして、おもむろにその旨を軍機処に報告した。

軍機処ではこの報告に頭をひねった。何瓊詔の行動がこのとおりとすれば、別に処罰すべき落ち度は無い。逆に苦心して敵情を報告に戻っており、本来称賛さるべき行動である。

軍機処は上奏文を決裁せず、

止予革職。

ただ、革職をあたえよ。

とりあえず解任して、別の軍務に就かせよ。

との命令書を送ってきた。

「なななななな、なんじゃと?」

このとき、すでに

瓊詔已処決多日矣。

瓊詔すでに処決して多日なり。

何瓊詔をすでに死刑に処してから、ずいぶん経過していたのである。

劉総督は軍機処に回報することもできず、もんもんとして、

於次年三月自殺。

次年三月に自殺す。

翌年三月、ついに自ら裁した。

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清・周寿昌「思益堂日札」巻二より。仮面つけているといろいろと大変なことになるんですわ。

なお、同書にはこのほかに、嘉慶年間と道光年間の事件も挙げております。これらも他人事としてはそこそこオモシロいので近日中に御紹介しますネ。

 

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