だめだ、もう会社行けない。イシャからもストップがかかりましたので、しばらく休みます。もし明日も会社でわしらしきものを見かけた、と思ったら、それは「別のやつ」ですわ。
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五代のお話です。盧文進は幽州(今の北京あたり)の出身で、武人として多くの功績を挙げて、江南の南唐国で范陽王となったひとである。彼が若いころの思い出として語ったことば。
・・・わしは契丹族の領域(遼東、沿海州)深くまで入り込んでしまったときのことじゃ。補給が途絶えてしまったため撤退を余儀なくされたが、このとき射猟を行って軍の食糧を補っていた。ある日のこと、
昼方猟、忽天色晦黒、衆星燦然、衆皆懼。
昼まさに猟せんとするに、忽ち天色晦黒、衆星燦然として、衆みな懼る。
真昼間に、さて狩猟を開始しようとしたところ、突然空が真っ暗になり、星々が輝きだしたので、兵士らはみな恐懼した。
わしも
「これはどうしたことか」
と驚き、
捕得蕃人問之。
蕃人を捕らえ得てこれに問う。
そこらへんにいた原住民を捕まえてきて、「これはどういうことであるか」と問うたのだった。
蕃人、ほえほえと言うよう、
所謂笪日也。
いわゆる笪日(たんじつ)なり。
「ほえほえ、これは、こちらのコトバで「笪の日」というやつでございますよ。
笪(たん)とは、そちらさまのコトバでいう日食のことでございます」
「ほう、日食か。河北の暦では今年は日食は無いはずであったが、さすがにだいぶん遠いところまで来ておるのだな」
と感じ入っていると、蕃人は続けて言う、
此地以為尋常。
此の地、以て尋常と為す。
「ほえほえ、このあたりでは、日食は少しも珍しくないのでございますよ」
「なに!」
とわしは驚いたものであった。
頃之乃明、日猶午也。
しばらくするにすなわち明るく、日なお午なり。
そのうち明るくなってきた。太陽はまだ南中していた。
さすらば、これは確かに日食だったのであろう。わしは速やかに兵を退いたから、その数日の間には二度目の日食は見なかったが、あの地方では日食が少しも珍しく無い、というのは、それだけ君王の威徳が及んでいないということだったのであろうか。・・・・
また、盧文進が言うには、
常於無定河見人脳骨一條。大如柱、長可七尺云。
常に無定河に人脳骨一條を見る。大なること柱の如く、長さ七尺ばかりと云う。
内蒙古から流れて陝西で黄河に合する無定河ではいつもひとの頭蓋骨を一つ見ることができたが、その大きさは柱のようにそびえたち、高さ七尺(2メートル)にも及んだ・・・ということだ。
最後に盧文進も「・・・と云う」と言っていますように、これは伝聞らしいのが残念なことである。
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五代〜宋の徐鉉「稽神録」より。日食が頻繁に起こる、というのは、緯度が高いので冬場には太陽の出ている時間がすごく短い、ということを言っているのかも知れない・・・と想像してみた。
五代・南唐の陳陶「隴西行」(西域方面のうた)にいう、
可憐無定河辺骨 憐れむべし、無定河辺の骨、
猶是春閨夢裏人。 これなお春閨夢裏(むり)の人。
どうして涙を禁じ得ようか、無定河のあたりに散らばる(兵士らの)骨は、
いまでもまだ彼の帰りを待つ若妻が、春の寝室で夢見るひとの変わり果てた姿なのだぞ。
ということで、「無定河」は辺境の、胡人との戦いの最前線だったのである。
ちなみに今わしが住んでおる○添あたりも春閨夢裏の人の骨が散らばっているわけで、さらに春閨の人そのものもたくさんこのあたりでは散らばっている。