身を隠しています。このまま津軽海峡のモクズ的に消えるかな。
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海城寒坼月生潮、 海城の寒坼(かんたく)に月は潮を生じ、
波際連檣影動揺。 波際(はさい)の連檣(れんしょう)は影動揺す。
従此五千三百里、 此れ従(よ)り五千三百里、
北辰直下建銅標。 北辰直下に銅標を建てん。
海に向かう城下にさむざむと拍子木が打たれ、月が昇るにしたがって潮も満ちてきたらしく、
岸壁の船々のほばしらの影が、揺れ動いている。
さあ、この地からさに北へ五千三百里のかなた
北極星の真下に「ここも我らの地だ」と銅の標識を立てにいこう。
この「海城」は北海道の松前です。確かにそのとおりの地形である。
「五千三百里」(=2万キロ強)というのはどういう計算で出てくるのか知りませんが、そんだけ進んだらヨーロッパ大陸も越えてしまう? とにかく「北極星の真下」(←北極点のつもりなのでしょう)に、銅製の標柱を建てたい、というのである。「銅標」というのは、後漢の馬援将軍が南方を征服し、交州の彼方に漢の領域であることを示すために銅の柱を立てたという、その銅柱を意識しているのであろう。
「国土」を必死こいて作り育て、あるいは守ろうとして散華したあまたの御先祖さまの御努力を、ぶくぶくの泡にしてしまわないか? いま、実はすごい大切な状況なのではないのかな? みなさん、わかってるんすか?
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ちなみにこの詩は越後びと長尾秋水の「松前城下作詞」という絶句です。日本三絶の一と評さる。松前城の本丸門の前に碑があったので写してきた。(←おいらはこういう大切なしごとをしているのですから、おもてのしごとで消耗させないでよ)
秋水・長尾直次郎は安永八年(1779)、越後・村上に生まれ、長じて水戸に学び、その後、蝦夷・松前まで遊んで風雲急を告げる北方防備に意を用いたという。「先覚者」ですね。晩年、越後・村上に帰り、郷党の教育に従事した。そろそろキナくさい文久三年(1863)没。臥牛山樵、青樵老人等とも号す。
松前まで来たのは四十歳ぐらいのころだそうです。