今日も頭ががんがん痛い。昨日から今日にかけて何をしていたのか・・・思い出せないぐらいである。そういえばだれかの命令で東京?へ行っていたような・・・そしてシゴトを・・・いててて、ああ、ダメだ、そのことを思い出そうとする頭が割れるように・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
さてさて、唐・開元の玄宗皇帝の治世のころにございます。
進士出身の張某はいくぶんはにかみ屋ではあったが文章流麗、怜悧でありながら細かい気配りができ、厳格に過ぎるというのではない程度に正義感にも富み、朋輩たちの評判は悪くなかった。ただ、己れを持することいささか高きに過ぎるところがあり、生半可な官職を与えられても満足しないおとこであった。
その彼が、南海尉(広州府の警察署長)として遠く嶺南に赴任することとなったというので、友人らが送別の宴を開いた。
ある程度たけなわとなったあたりで、岑参(しん・じん)が張某の本心を叩いた。
「きみ、このたびの人事にどれほど満足しているのか」
張某、ふん、と笑って、杯をあおると、言うた。
不択南州尉、 南州の尉を択(えら)ばざるは、
高堂有老親。 高堂に老親あればなり。
南海郡尉の職をえり好みしてお断りしなかったのは、
奥の座敷に老いた親がおるからだ。
「択ぶ」は、選り好みをすること。
この一言は、「孔子家語」致思篇の美しくかつ名高い次の逸話を踏まえたのである。
・・・ある日、孔子と何人かの弟子たちがくつろいでいたとき、子路が孔子に向かって言うた。
「先生、わたしはこう聞いております。
負重渉遠、不択地而休。
重きを負いて遠きに渉(わた)るには、地を択ばずして休む。
重い荷物を背負って遠方まで行かねばならないというときには、休める場所があればどんなところででも休もうとするものだ。
と。同様に、
家貧親老、不択禄而仕。
家貧しく親老いたれば、禄を択ばずして仕う。
貧乏で、親御が年老いて養わねばならぬときには、給料をくれるところがあればどんなところででも仕事をさせてもらおうとすべきです」
「ほほう。・・・由(子路の名前)よ、言いたいことを言ってみなさい」
「あい」
孔子に促されて子路は言うた、
昔者由也事二親之時、常食藜藿之実、為親負米百里之外。
むかし、由や二親に事うるの時は、常に藜藿(れいかく)の実を食らい、親のために米を百里の外より負う。
むかし、わたしが両親におつかえしていたころは、わたしは貧しく、いつも野草の実を食らいながら、親のためには自ら遠いところから重い米を背負って運んでさしあげたものでございました。
親没之後、南遊於楚、従車百乗、積粟万鍾、累茵而坐、列鼎而食。願欲食藜藿、為親負米、不可復得也。
親没するの後、南のかた楚の遊び、従う車百乗、積む粟万鍾にして、茵を累(かさ)ねて坐り、鼎を列(なら)べて食らう。藜藿を食らい、親のために米を負わんと欲するを願うも、また得べからざるなり。
両親が死んだ後、わたしは南のかた楚の國に旅し、その地で成功して、百台の車に財産を載せ、一万升の粟を保有し、座布団を何枚も重ねた上に座り、ナベをいくつも並べた豪華な食事をするようになり申した。しかし、そのときになって、また野草の実を食らいながら親のために米を背負ってやろうと思っても、もうすることができませなんだ。
いにしえびとの言葉に、
枯魚衘索、幾何不蠹。
枯魚の索を衘(くわ)う、幾何(いくばく)にして蠹(と)せざらんや。
干し魚が縄にぶらさがっている。虫が湧くまでにどれほどの時間があるだろうか。
と申します。
時の流れは速いもの。親の寿命をいつまでも続くものと思うてはなりませぬ。こんなことなら、早くどんな仕事でもいいから安定した職を得て、親御をお世話したかったものでございます。
・・・・孔子、曰く、
由也事親、可謂生事尽力、死事尽思者也。
由や親に事(つか)うるに、生きては事うるに力を尽くし、死しては事うるに思いを尽くす者と謂うべきなり。
由は、親御におつかえするのに、生きておられる間は物理的な力を尽くしておつかえし、亡くなったからは精神的な力を尽くしておつかえしている、というてよかろう。
と。
孔子は幼くして両親をともに亡くしたひとでございます。その目にもうっすらと涙が浮かんでおったと申しまする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
張某の答えは、このお話の「不択禄而仕」を踏まえたわけです。
「なるほどのう」
要するに生活のためだというのである。
・・・さて、張某、南海に赴任してみたところ、どうであったろうか。頭ががんがん痛いんで、とりあえずバファ様飲んで寝ます。続きはまた明日。