明日はまた仮面をかぶらないと・・・。
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浙江・義烏の漁村に、姓を傅(ふ)というおかしな若者がいた。
年はもう二十四にもなるのだが、仲間といっしょに漁に行き、その日の漁を終えて、さて帰ろうかというときになると、決まって
沈籠水中、祝曰、去者適、止者留。
籠を水中に沈め、祝して曰く、「去る者は適け、止まる者は留まれ」と。
魚を入れた魚篭(びく)を水の中に沈めて、呪文のように
「出ていくものは出ていきなされ、残りたいものは残りなされ」
と唱えるのである。
人或謂之愚。
人あるいはこれを愚ならんと謂う。
一部のひとびとは、彼のことを「愚か者だ」と言った。
しかし、沈めた魚篭を引き上げると、必ずその日の生活に必要なだけの魚は残っていたから、
「あの男はあなどれぬ・・・」
と、畏怖する者もいた。
後、ふらりと黄山に隠棲し、金剛経を究めて、帝の前で講じるまでになった善慧和尚の俗人時代のエピソードである。
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さて明日からも「本当のことにまだ気づいていない愚か者」の仮面をかぶるか・・・。
なお、善慧には名高い偈があります。
夜夜抱仏眠、 夜夜に仏を抱きて眠り、
朝朝還共起。 朝朝またともに起く。
起坐鎮相随、 起坐に鎮(しず)まりて相随い、
語黙同居止。 語黙にも居止を同じうす。
繊毫不相離、 繊毫もあい離れず、
如身影相似。 身と影の如きに相似たり。
欲識仏去処、 仏の去処を識らんと欲せば、
唯這語声是。 ただこの語声ぞ是なり。
おまえは毎晩、ほとけを抱いて寝ているのだぞ。
それから毎朝、一緒に起きる。
立っても座ってもじっと従いあい、
話しているときも黙っていても行動をともにする。
いささかたりとも離れることなく、
本体と影のようにそっくりだ。
ほとけがどこに行ってしまったか? 知りたいのか。
そのおまえの声そのものの中に、ほとけがおるぞ。
わかりまちたか?
ちょっと冗長な感じもします。ので、第一句の「夜夜に仏を抱きて眠る」だけで使うことが多いみたい。
(おっと、間違ってまちゅよ、あなたが抱いてるのは内面夜叉でちゅよ〜。左道密教ではありませんので、ここで夜夜抱いているのは「愛するひと」ではなくて、自分の中の仏性です。気をつけてくだちゃいよー)
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「五灯会元」巻二より。
善慧は梁の武帝に説法した、ということですから、六世紀のひと、南天竺から来て「禅」を伝えたというダルマ大師と同時代のひとですね。