平成24年7月30日(月)  目次へ  前回に戻る

 

明日はまた仮面をかぶらないと・・・。

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浙江・義烏の漁村に、姓を傅(ふ)というおかしな若者がいた。

年はもう二十四にもなるのだが、仲間といっしょに漁に行き、その日の漁を終えて、さて帰ろうかというときになると、決まって

沈籠水中、祝曰、去者適、止者留。

籠を水中に沈め、祝して曰く、「去る者は適け、止まる者は留まれ」と。

魚を入れた魚篭(びく)を水の中に沈めて、呪文のように

「出ていくものは出ていきなされ、残りたいものは残りなされ」

と唱えるのである。

人或謂之愚。

人あるいはこれを愚ならんと謂う。

一部のひとびとは、彼のことを「愚か者だ」と言った。

しかし、沈めた魚篭を引き上げると、必ずその日の生活に必要なだけの魚は残っていたから、

「あの男はあなどれぬ・・・」

と、畏怖する者もいた。

後、ふらりと黄山に隠棲し、金剛経を究めて、帝の前で講じるまでになった善慧和尚の俗人時代のエピソードである。

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さて明日からも「本当のことにまだ気づいていない愚か者」の仮面をかぶるか・・・。

なお、善慧には名高い偈があります。

夜夜抱仏眠、  夜夜に仏を抱きて眠り、

朝朝還共起。  朝朝またともに起く。

起坐鎮相随、  起坐に鎮(しず)まりて相随い、

語黙同居止。  語黙にも居止を同じうす。

繊毫不相離、  繊毫もあい離れず、

如身影相似。  身と影の如きに相似たり。

欲識仏去処、  仏の去処を識らんと欲せば、

唯這語声是。  ただこの語声ぞ是なり。

 おまえは毎晩、ほとけを抱いて寝ているのだぞ。

 それから毎朝、一緒に起きる。

 立っても座ってもじっと従いあい、

 話しているときも黙っていても行動をともにする。

 いささかたりとも離れることなく、

 本体と影のようにそっくりだ。

 ほとけがどこに行ってしまったか? 知りたいのか。

 そのおまえの声そのものの中に、ほとけがおるぞ。

わかりまちたか?

ちょっと冗長な感じもします。ので、第一句の「夜夜に仏を抱きて眠る」だけで使うことが多いみたい。

(おっと、間違ってまちゅよ、あなたが抱いてるのは内面夜叉でちゅよ〜。左道密教ではありませんので、ここで夜夜抱いているのは「愛するひと」ではなくて、自分の中の仏性です。気をつけてくだちゃいよー)

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「五灯会元」巻二より。

善慧は梁の武帝に説法した、ということですから、六世紀のひと、南天竺から来て「禅」を伝えたというダルマ大師と同時代のひとですね。

 

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