沖縄観光記 (起:平成24年7月25日(水)) 目次へ 平成24年7月23日へ
うひひ。このページはおえらがたには気づかれていない模様。
平成24年7月
24日 聞得大君殿内
ゆいレールで終着まで行った。地図も無いからレールの下をとにかく坂を下ってみた。最初の角の首里中のところにあったということである。儀保は「ジーブ」と読んだという。
25日 県立博物館
今日は常設展の半分ぐらいで時間切れ。おもろの詠唱、琉球組踊りなど勉強になった。沖縄の芸術は、廃藩置県の後でやっと民衆のものになったのであるという。
28日 マルエーフェリー
東京・有明から21:30に出発。→出発時間大幅に遅れて25:30
29日 太平洋上にあり。柳田國男大人いうところの「海上の道」を逆走中。
←黒潮逆走中
ヤシの実も浮いていないが、1400ごろ潮岬を近くに見た。船は食堂もあってたいへん快適。風呂があるともっといいけど。シャワー。
30日 早朝、鹿児島・志布志に寄港。種子島を左舷、屋久島を右舷にして航走。このあたりから海はあくまで紺碧、波少し高くなる。さらにトカラの島々を見つつ、夕刻、奄美・名瀬に寄港。明日はもう仕事か・・・。
8月
3日 国際通りをうろうろしてみた。松尾というのはこういうところか。遊郭とかあるのかと思っていた。島唄ライブなるものを聴く。
4日 伊祖神社(伊祖城)
虫多くて困った。突然、大阪の中隊の全滅の碑石の前に出る。こういう場には必ずいる黒アゲハが、今日もひらひらと舞うていた。伊祖神社の奥の奥で名高い?「奥間按司子孫○○、××中、□□中、・・・、他人拝ムベカラズ」の石刻を見た。何で名高いのか忘れたが、たしか新耳袋に出てくるんではなかったでしょうか。あるいは2ちゃんねるのオカルト板だったか。あるいは30年も前に兄貴に聴いたのだったか・・・。
なお、石刻のほかにも、昭和10年の壊れた碑石(沖縄戦によるものであろう)の破片あり。金○某が、海外からの帰国を記念したもののようだが全体はわからぬ。
浦添ようどれ・浦添城、ようどれ館
ようどれにはかつて死者の世界と生者の世界の間を仕切る岩があったそうですが、沖縄戦で崩れたんだそうです。それ以来、沖縄には死者があふれるほどに現れるらしいが・・・。浦添城ではディーガガマ、さすがに気味悪い。立入禁止とされていました。岩が崩れるからでなくて、不用意に入ったひとがおかしくなったという・・・。
なお、浦添グスクの石垣の下からは若い女性の骨が出てくるという。人身供犠文化だったのですね。伊波普猶霊園(沖縄墓)もあり。伊波先生は戦後すぐに東京で死んだ。
ようどれ館の教育委員会作成のビデオは黄粉のように反本土色がまぶしてあって、教育委員会ってほんとにこれがかっこいい、と思ってるんですかね、と全国どこに行っても感じるイヤな感じを感じました。
当山石畳道
小川沿いで凉しそうなのですが、暑かった。
テダ御川
国王の久高御幸の際に水を差し上げた(若水か?)場所ということだ。海岸にあり、今は涸れた。
斎場御嶽まで行ったが、時間切れで入れませんでした。また今度ということだろう。このとき雨も激しくなり、今日はいずれにせよ許されていなかったか。このあとうちゅになる。何等かの非礼のゆえか。みながにこにこ入る観光地でも、わしは(霊的に)排除されていることよくある。
5日
浦添テラガマ
近所のガマ(洞窟)でウガンジョらしい。階段を下りてガマの口まで行ったところで、霊的な感じがひんやりしてきたので「さもあらん」と思い、すぐ戻ってきました。
南島で「テラ」というのは、洞穴、それも洗骨に使った墓所を指す、であろうとは谷川健一の説(「地名逍遥」)である。
那覇市歴史博物館
今日は台風11号で雨風すごいので、地方には行けないと思い那覇市の中心部にある博物館に行ってきました。尚王家の伝来品なども置いてあるが、何より那覇の古図が幾枚かあるので、現在の状況と一生懸命照らしあわせてみる。戦災(艦砲射撃)→占領行政を受けているのでなかなか比較しづらいが、ちょっとわかった。港町那覇は大して広くない「町」だから、どんどんイメージついてくるであろうと思う。
中西の大岩
バスセンターにあるというのでついでに観に行った。かつて湊内の小島であったという。
首里城公園・首里城正殿
すごい雨なので「首里城は空いているのではないか」と思い、モノレールで首里へ。
ずぶ濡れになって一通り見学。説明者の説明とか、一部「おかしい」ところはあるが、聞いている人たちにはこれで十分だろう、と思うので、黙って聞き過ごす。
琉球菓子を食い、解説を聴く。それにしても「ちんすこう」は○○いな。ほんとに冊封使とか、こんなもの食って喜んでいたのか。首里杜御嶽が復元されているのでほっとしました。フタをすべきところにはしかるべきフタをしておかないとねー。
9日
泊の大阿母拝所
小公園の隅に祠があった。「上帝君一」の碑もあって少しコワかった。
崇元寺跡
祟元寺は沖縄戦で灰塵と化した元国宝である。今もその跡地はほんとの廃墟状態で、礎石だけが残り、その上にヒルギが根を張って大地にしがみついている。表の石門だけ観光用に復元してあるのですが・・・。午後七時ごろ、ようやく日が暗くなったころに到着。すると、針金のように痩せこけ、ひげのやたらに長く、ランニングシャツの老人が近寄ってきた。(話しかけられるとちょっとイヤだなあ・・・)と思ったが、思った一瞬のうちに、そのひとの姿は消えうせた。
驚いたのはもちろんであるが、しばらくするとその人が石門の方に寝そべっているのが目に入った。
いったいどういう術であったかは知らぬが、見張り人(みはりんちゅ)であろうか。
牧志拝所
国際通りの脇にある小公園に、鳥居のある小祠然として存在している拝所(うがんじょ)である。ただ、祠の中を覗くと、こんな言葉が刻まれていた・・・。
ヤガノモイコガノオイベ
こんなところに書いたらまずかったのかな?
とにかく、ここにも針金のように瘦せたこれは初老のひとがいて、テニスボールをサッカーのように蹴ってシュートの練習をしながら、わしの方をずっと見ていた。みはりんちゅか?
10日
国際通り
今日は古い知り合いと久闊を叙した。今日は「カラブサ」(←ユニット名)さんの島唄・民謡ライブを聴かせていただき、杯を進めたから、左半分の偏頭痛がひどく、右腕が痺れるたいへんな状況。カチャーシュというものを教えてもらう。が、指笛はまだ教えてもらえぬ。ひとびとは指笛の音で何を喚び寄せているのか。
11日
島添大里城跡
かつてこの城の主は馬天港を擁して対明貿易を取り仕切っていた佐敷小按司を支配下においていた。佐敷小按司こそ、第一尚氏の尚巴志であり、彼はこの大里城を攻め落とし、「世の主」(いくつかの按司を統べる「王」)となったのである。東端のミーグスク(「ミー」は大和言葉の「にい」である。「新城」)の風光の素晴らしさは息を呑むものがあり、近くに小さな拝所もあって興味を引いたが、草刈り機を回している見張りんちゅがいておかしなことはできなんだ。そこから主郭に下りる。かなり森深く、がさがさと鳴るものがあちこちにいてコワい。特に「奥間ハンジャナシーメエ」のお墓と刻まれた碑石あり。いにしえのものかと思うたが刻まれた年月は1988年。つい25年ほど前に亡くなったひとなのである。これはそのひとの戸籍名ではあるまいと思われたが、どういうひとであったのか。
主郭から西端に当たるカニマン御嶽に到着。異様な形の御嶽でございました。以前は一般人はここまで入れなかったよし。カニマン御嶽からすぐにチジンガーあり。深い泉である。水滴の音が神々しかった。ここは一度は行ってみるべきところであった。
斎場御嶽
ついに来ました、さいふぁうたき。感動ものです。観光客多いが、イタズラするひとはいない。遺跡の重要性を知っているから(←「世界遺産」になると突然偉く思いはじめる人たちなのだ)でもあろうが、何よりコワいのであろう。有名な三庫裡はともかく、寄満あたりに来ると森が深い。まだ奥の聖地があるということである。夜ここに一人で来い、といわれたらキピキピになってしまいますね。神宮神域も夜一人で歩けぬが、あんな感じ。とにかく森が深いのだ。ということは、夜には闇が深いのだ。
知念大川(うっかー)
マツミネカ・ミネノオイベ。泉です。不思議な三人組に出会う。「こんにちは」以外はどこの国の言葉かわからんし、何をしにきたひとたちなのかも不明。何かを探しているように見えたが・・・。こういう山中で複数人の集団に会うと普通にコワいものですが、この三人組はコワくない。敵意が無い、というよりわたしなど目に入っていない、という雰囲気。年齢ばらばらの男性三人であった。はじめ地元のひとかとも思うたが、レンタカーだった。
知念城跡
知念ノロの屋敷跡、さらに新城と古城あり。古城は高い崖の上で、拝所もある。今整備中ということです。整備されたらすばらしい景観であろう。しかしこの地の地霊がそれをゆるすものかどうか・・・。奥に「くふぁかる」があるというので入っていく。これはいわゆる水口(山から水が落ちてくるところ)らしく、稲作の発祥伝承地、ということであった。アマミキヨ神話に基づくもの。山中に今も数枚の狭い水田が開かれてあった。そこから知念按司の墓、屋敷跡も行けるようであったが、→の方向に道が無く、断念。
ところでこのあたりを撮った写真、今電子カメラで見ていたらたくさん・・・うう、もうイヤ。わたしは「調べんちゅ」なのでコワいけどいろいろ調べているんです。「調べる」ように遠い過去になにものかに指示されているので。だけどコワいのはわかる。これだけコワいのはほかの地域では・・・貴船・鞍馬もコワかったけど、あとは宮崎とか熊本とかあのへんぐらい? ああ、隠岐もそうだ・・・。
12日
これまた、ついに来ましたイザイホーの島へ。星野之宣先生の「ヤマトの火」で紹介されていたのを見て以来、いつかはこの島に来てみようと思っていたのだ。
現実にはイザイホーはもう開かれることなく、観光客がわさわさと訪れる島になってしまっていましたが、まあ、それぐらいでないとおいらも来れないからね。
フバ御嶽(クボー御嶽)は立入禁止のところまで行きました。ここには見張りんちゅはいなかったが「拝みんちゅ」がいた。そのほか、外間ノロ殿内、久高ノロ殿内、いくつかのカーなど、まだまだむき出しの礼拝施設のままでしたな。海がきれいでした。蜘蛛、蜻蛉がおそろしくでかかった。蜘蛛はカナブンを食っていた。ちゅうちゅうと。
とにかく熱中症状態で、見つめていると蜘蛛がどんどん大きく見えてくるような状態で、困った。
←島の道。影が無いんですよ。
←この海の色を見なされ。これでもまだ東京などにしがみついて生きていられるみなさんは、ほんとにエライねー。
佐敷上グスク、月代宮
第一尚氏の佐敷小按司の居城である。琉球王朝時代は「月代宮」とされていた。島添大里城と比べるとその規模の小さいのに驚く。鬱蒼たる樹木の陰になって見えぬが、馬天港はすぐ下である。火神(ひぬかん)祭祀施設あり。
スデツカサノオイベ、ワカツカサノオイベを祀るなり。
←月代宮(琉球王朝の礼拝所の一)。この裏に佐敷上グスクの拝所あり。
14日
内間の大アカギ
帰り道に寄ってみた。周囲にウタキや内間グスク跡などがあるようですが、道路とか宅地とかになっていてよくわからん。
なお、目が真っ赤になり、頭もきりきり痛むので眼医者に行ったところ、ウイルス性結膜炎とのこと。いろいろまずいところに行ってしまったんだろうなあ。反省はするが調べるためだからなあ。
15日
泊の高橋
琉球王国時代、那覇港から首里王府への交通に便ならしむるために設けられた。橋のたもとに小さな竜神祠あり。
←木立の道側の橋。昔のは、もちろん沖縄戦で破壊された。この木立の中に竜神祠ある。
16日
銘刈の古墓群
県庁の分庁舎と小学校の間の窪地にあり。琉球石灰岩の洞穴を利用したものらしい。柵で近くに入れないようになっていて、どういうわけかその柵の中ではヤギが飼われている。
軽便鉄道跡
浦添市内の軽便鉄道線路跡を少し歩いた。「直角に曲がることがない」「上下が少ない」「不自然にゆるやかなカーブ」などの廃線跡の特徴を備えていた。今後もう少し歩いてみたい。糸満方面にも。
←普天間市博物館にあったパネルを撮影。意外と延長線長いでしょう。
17日
県立美術館
企画展「旅する仮面」観る。かなりコワいものも多かった。おんごろの仮面みたいなのもあった。ビデオで、「西表のミロク・オホホ」「ダードゥーダ」を観る。微笑ましい。
18日
宜野湾市立博物館
安座真遺跡から出てきた人骨の考察や天女伝説(天女のコドモが察度王)、普天間宮、戦前の農家、沖縄戦(20.4の嘉数高地攻防戦)、伊佐の基地闘争について展示あり、なかなか佳かった。よくわかりました。最後に1996年のSACO合意でついに普天間飛行場が還ってくることになったー――で結ばれているところなど、その後、メディアと結んで2009年に政権を握ったひとたちがポピュリズムの流れに乗じてそれをどうしてしまったか、と思うと、悲しくなってくるです。尖閣にも堂々とチュウゴクが入ってくるような状態にしてしまいましたねー。沖縄戦で、ダイナマイトを抱いて戦車を吹っ飛ばしたひとたちの守ろうとしたものをいともたやすく壊してしまったのだ。わしは知らんぞー。
軽便鉄道の台車(昭和58年にほりだされたもの)も展示されてあり。
森川(むいのかー)
天女が降りてきたところ(「西森碑」)だそうです。今のカーは近世に浦添向家が作り、付近の農民たちに開放されていた水場であったということですが。亜熱帯の森が鬱蒼として佳い。ムシが多いのはちょっとイヤ。
←森の川。下に降りて行ったら、前後が逆になった気味の悪い蝶何匹かに取り囲まれたので、写真撮らずに逃げてきた。
付近の大山貝塚を探すが断念。ウイルスに苦しむ今のわたしには炎天下での探索行は困難である。
久しぶりで「二礼・二拍・一礼」でお詣りできる神社に着いた。なんと心が和むことか。さらに巫女姿のおねいさんの案内で普天間洞穴(奥宮)を見学させていただく。見学できる範囲は数十メートルだが、涼しくて森厳で、久しぶりで心深まる。表に出て宮の裏手も「調べる」をした。またまたすさまじい大きさの蜘蛛発見。久高とちがって都会の蜘蛛だからであろうか、一段と大きい。そしてまるまると肥った腹の縞々模様も黒光りするほどのつやのよさ。キモチ悪い。
祭神はイザナミ、タヤタマヲ、コトサカヲ、アマテラス、ケツミコ、及び琉球古神道のヒヌカミ、ニライカナイ、グジーなど。ビジュル信仰とも習合している、ということであるが、ビジュル信仰って何かわからん。これから勉強します。
←この左上に日の丸ひるがえっている。
←奥の宮(普天間洞穴)。この中に入っていける。ここまでは巫女さんの案内付き。
嘉数高台公園
ハトヤマさんなど多くの要人がこの公園の展望台から普天間基地をご覧に見える、ということで有名なので、わしも観に行った。
沖縄戦最初の大激戦地でもある。4月上旬の米軍上陸後、首里方面への最初の防衛線として、10数日の間、ここで第二師団(京都・北陸)を中心に激しい攻防戦が繰り広げられ、日本軍はダイナマイトを抱いての戦車への特攻や斬り込み隊攻撃など、やつら(とそして世界戦史)の度胆を抜く戦術で、われらが他人の国に攻め込んだやつらにどんな抵抗をするのか、身を以て示したのである。この間、宜野湾村民の戦死率約3割、朝鮮人徴発労働者も含めて、民間人にも多大な被害が出た。この嘉数から撤退した後の第二次防衛線が、指呼の間に望まれる浦添の前田高地(8月4日にうろついた伊祖城、浦添城などのライン)である。
軍壕跡、トーチカ跡を見学の後、嘉数の塔(地元戦没者)・京都の塔(京都府民戦没者)・青邱の塔(朝鮮人労働者)の慰霊塔に黙礼を捧ぐ。
アラハ・ビーチ
陽の沈むのを見ようと思って来た。陽の沈む瞬間に、運がよければニライカナイへの道が見えることがあるというので、見てみたかったのである。
海原に雨の降っているところ、日の照っているところ、雲に隠れたところとあるのが見え、陽の水平線に沈んでいくのも見えた(わしのようにその人生のほとんどを本土の太平洋側で暮らしているとあまり経験が無い)が、その「道」、大いなる天地の裂け目、というのは見えなんだ。またの機会に。
海兵隊と思われる屈強の白黒の若者たちがヒップホップ・パーティーを開いていた。交代でブレイク・ダンス踊ったりしていたぜ。ゴキゲンそうです。やつらの陽気な笑い声を聴いているうちにわしも陽気になりましたよ。
←ニライカナイさ行くだ。
さて、嘉数の公園ではボランティアらしい人が本土の学生らしき数人に平和の尊さを語っていたが、その中で「海兵隊は人を殺すための軍隊。エリートの空軍などとは違う。そのため、世界中で嫌われている。全国のひとが嘉数に来るが、そのひとたちに「海兵隊を引き受けてください」と言っても、みんないやがる」と説明していた。学生たちはうつむいて黙って聞いていたが、やがて世界がそんなことばで動いていないことがわかるようになるだろう。海兵隊がリスペクトされる理由もわかるようになるだろう。だいたい、地球上にアメリカよりいい国は、おそらくニホンしか無い、ということもまだこいつらは知らないんだろうからねー。
このあと、「沖縄ちゃんぽん」を食う。わざわざ「長崎ちゃんぽんとは違います」と断ってあった。大いに違った。腹苦しい。
19日
中城城
なかぐすく・ぐすくへ行ってまいりました。中世沖縄内戦史のほぼ掉尾を飾る護佐丸と勝連按司との実戦の場であり、ペリー一行が視察して、火器使用以前における優秀な石造城塞であったことを認めた(ちなみに当時はまだ琉球王府の番所と呼ばれる出張所があった)城郭建築である。その後も構築物があったらしいが、ほとんど資料を遺さずに沖縄戦のときに焼失したという。現在、「番所」があった一の郭の調査を進めているそうですが、なかなかわからんそうですよ。
尾根上を南から北へ郭を連ねて行く手法で、現在の入口は裏門側になっています。各郭の石壁の上に昇ると太平洋と東シナ海が一望のもとに収められる。北郭中に「忠魂碑」あり。日露戦争と対独戦争(第一次大戦)の地元の戦死者を紀念していた。
なお、南の郭の外に名高い「中城高原ホテル」(跡)が無残なる廃墟の姿をさらしていた。沖縄海洋博に合わせて町で作ったが、完成前に放棄されてしまったというイワク言い難いものだそうで、その異様な姿ゆえ映画等のロケにも使われるが、代表的沖縄心霊スポットの一ともなっておるとのことじゃ。
←南の郭から一の郭方面
←一の郭から二の郭へ
←三の郭を覗くよ〜。
←三の郭から西の方を望む。東シナ海が見ゆる。
←三の郭から二の郭方面
(おまけ)
←これこそ世界遺産とすべき。中城高原ホテル(跡)
伊寿留按司(いじゅるんあじ)墓
中城城のすぐそばにある(入場料を取られるゲートの内側)ので行ってみましたが、またまた亜熱帯の森の中をたどらねばなりません。ぶんぶんと今日は蝶、蚊、かなぶんのほか、巨大とんぼ、そして巨大ハチまで登場。はっと頭上を見上げると巨大ぐも。変な色の草木の間を通って調査。発見。
←いじゅるんの墓に向かう道。この横たわった木にはかたつむりみたいなでかいのが引っ付いている。
護佐丸墓
こちらは少し離れたところに、参道が整備されておりました。炎天下に登り階段を200ほど登って到着。中城湾が見下ろされた。一応、尚王朝への忠臣だったことになっております。「丸」名は和人由来だともいわれる。
中村家住宅
18世紀末に作られたという豪農の屋敷。本土の鎌倉・室町期の書院造り様式の影響が強いらしい。たしかにチャイナや朝鮮の家では無く、日本の家である。中でごろごろしていると、天井の高さという風の通り具合といい、どうしても自分の幼いころに見上げていた実家のつくりを思い出してしまう。
まったく違うのは「仏間」。仏壇はあるんだけど、位牌の形とか違うんです。
ブタ小屋ありました。人間の便を食って育つという。
←かっこいい。左下の屋根の無い部分が豚小屋。
荻堂貝塚
戦前期から有名な貝塚で、本土の縄文末期に相当するものらしい。「屏風のような岩の下」にあった、というのだが、今は宅地の真ん中に碑が立つばかり。周辺の荻堂集落調べる。カー(井戸・泉)、大城(立入できず)・新城(同左)などあり。大城の裏側が崖地になっているので、この下のようなところに貝塚があったのであろう。
←城(ぐすく)の裏側の崖。これで上半分ぐらい。下の方は亜熱帯の森に隠れている。
北谷アメリカンビレッジ
というので、ヒップなアメリカ人がいっぱいいるのかと思って行ってみたが、アウトレット等のショッピングモールなどであった。中部から北へ行くと沖縄戦の戦跡が極端に減るので、(こちらの気持ちのせいなのでしょうが)明るくなる感じ。
24日
知内町郷土資料館
いろいろごちゃごちゃ置いてあって佳かった。廃駅関係の資料多く、怨念を感じた。
安政年間に作ったが、天守は昭和戦後に役所の火事が移って燃えおちた。南蛮風の愛想の無い小さな天守閣が魅力ではありますね。
コンクリ造りの復興天守の中には、松前藩関係の雑多なものが保存されており、たいへん佳い感じであった。海が見えた。かなたに竜飛岬があるはずである。
城の背後に松前藩主家(武田家)の廟もあり。何の飾りも無く大切なものがあちこちにある感じ。「松前藩屋敷」というものがあったので名前にひかれて行ってみたが、松前城下をイメージしたテーマパークということで、経営たいへんそうであった。
←愛想無い。昭和34年復興。コンクリ。
←8月だがもう夕方は肌寒い感あり。琉球童子には堪えるのさー。白神岬。伊藤整生誕地もここらへん。
松前町郷土資料館
ごちゃごちゃ度高く高評価。函館→松前間にあった男爵資料館や千代の山・千代の富士両横綱を記念した横綱記念館は時間の都合上割愛した。和人(シャモ)によるアイヌ収奪過酷であったが、一方でアイヌの中にも「義侠心のあつい者」もいて、大反乱のときに鎮圧側に回ったりした。
←かっこいい郷土芸能の衣装。
一宮徳山神社
松前一宮として尊崇されたという。17世紀の勧請になる。その裏手の澤の上流に、ゴローニン等の幽閉されていた地あり。
←ゴローニン配所跡。かなりの田舎。ロシア人だから寒さはともかく夏の蟲とかひどかったのでは?
25日
どこに行ったかだけ忘れる前に書いておきまっせ。
亀井勝一郎記念碑・・・亀井は函館貯蓄銀行頭取の息子
啄木矢車町住居跡・・・4か月だけ住んで、火事で勤め先無くなって札幌へ。いい思い出の地らしい。
函館市立博物館・・・写真師たち、ガラス原版、火事、水族のはく製(カニの六本脚、八本脚)、箱館戦争の状況など(函館図書館長・岡本なんとかさんの顕彰)
函館公園・・・明治開設。
立待岬・・・石川啄木一家の墓、与謝野夫妻の歌碑(→上記岡本なんとかさんの功績へのおもねりの碑だった)
北方資料館・・・高田屋嘉兵衛についての資料館。NHKのドラマ、子孫同士の会合、釣りキチ三平カムチャッカ編など
(岡本全勝氏と合流)
函館山頂・・・334m
元町教会群・・・ソフトクリーム屋3軒
旧函館市公会堂・・・コンサート中、洞爺丸事故の海難審判を開廷した場所
高田屋嘉兵衛資料館・・・北方資料館とセット。高田屋関係の資料が中心ということのようである。
(岡本全勝氏と分離)
夜の函館山頂・・・霧深く涼しかった。
26日
函館市立美術館・・・滝平二郎展。蠣崎波郷の「夷酋列像」(反乱鎮圧に協力した「オミカタエゾ」12人の画像)はすばらしかった。が、関係資料売店に無し。
北洋資料館・・・北洋漁業の資料館。あけぼの缶詰(ニチロ)系。捕鯨ビデオとかカニ工船ビデオとかオモシロし。たいへんためになるとともに、北洋漁業関係怨念の強いことを認識。函館の主たる「怨念」(地霊)はアイヌよりこれではないか、とピピっと感じた。
五稜郭タワー・・・土方さんファンらしいの多い。
史跡五稜郭、箱館奉行所・・・かなり暑い。
←復元・箱館奉行所。あんがいかっこいい。上に飛び出ている太鼓櫓は函館湾からの新政府軍の艦砲射撃の的となり、命中して数名の死傷者が出ているという。
中島父子戦死の地・土方歳三戦死の地・・・とにかく暑かった。神奈川っ子としては浦賀の幕臣であった中島父子の終焉の地は以前から気になっていたのさ。浦賀の郷土資料館に中島の写真あったし。
30日
うちなー盆
今日から三日間、沖縄はお盆です。沖縄のお盆は旧暦の中元(七月十五日)だから。月がほぼ満月。ぎらぎらしている。それだけでコワいのに、帰りがけに地元のひとから、
「今日から三日間は、なんだか沖縄中がわさわさしますよー」
と言われた。死者たちがその国から帰ってくるからわさわさするの? そう言っているように聞こえるんですけど・・・、「違う」と言ってほしいのですが・・・。
←旧暦の中元なので満月なのです。超新星爆発かと見まごう明るさ。
←浦添・内間の家に一軒だけですが真夏にしめ縄の家があったので珍しく。このしめ縄は北九州式?
31日
あちこちでエイサーやってるさー。
←念仏踊りさー。