平成24年7月24日(火)  目次へ  前回に戻る

 

「おまえはとりあえず苦々しげに漢字でも讀んどればよいのだ」

と怒られましたので、今日は漢字に戻ります。

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孔子の高弟・子路が琴を弾いていた。孔子はこれを聞かれて、かたわらにあった別の高弟・冉有におっしゃられた。

―――ひどいものじゃな、由(子路の名)の能力の無さは。

「とおっしゃいますと?」

―――あの曲は北方の曲ではないか。

「そうです、最近はやりの・・・」

―――それがことよ。

と、孔子の教えて曰く、

夫先王之制音也、奏中声以為節、流入於南、不帰於北。夫南者、生育之郷、北者、殺伐之城。

それ、先王の音を制するや、中声を以て節と為して奏し、南に流入して北に帰せず。それ、南なるものは生育の郷、北なるものは殺伐の城なり。

えーと、古代の聖王たちがいろんな制度を創設していく過程で、音楽というものも創られたわけだが、その際、中庸のとれた音を基準にして曲調を定め、南方に流れていくようなメロディーにして、北方には向かわないようにしたのじゃよ。なぜなら、南というのはものを生み育てる場であり、北と言うのは殺し滅ぼす場であるから。

君子というのは、柔らかで温かい場にあって、生み育てるの力を貯える。憂い悲しむ気持ち、怒り暴れんとする動きを心にも体にるも加えない。これが

所謂治安之風也。

いわゆる治安の風なり。

安らかに治まる「うたの力」というものじゃ。

しかし、ちっぽけな人間にとってはそうではない。

彼らの好む音楽は華麗を競い、微妙な細部にこだわり、それによって殺し滅ぼすの力を現実にしようとする。中庸で和やかな気持ち、あたたかで柔らかな動きを心にも体にも加えない。これこそ、

所以為乱之風。

乱を為すゆえんの風なり。

乱れを起こす「うたの力」というものじゃ。

「へえー、そうなんですか」

―――さて、いにしえのこと。

と、孔子の曰く、

昔者、舜弾五絃之琴、造南風之詩。

むかし、舜は五絃の琴を弾じ、南風の詩を造りぬ。

むかしむかし、聖帝・舜は五本の糸をわたした琴を弾いて、「南風のうた」を作った。

其詩曰、南風之薫兮、可以解吾民之チ兮。南風之時兮、可以阜吾民之財兮。

その詩に曰く、「南風の薫れるや、以て吾が民のチ(いか)りを解くべし。南風の時や、以て吾が民の財を阜(おお)くすべし」と。

そのうたの歌詞にいう、

南から風が吹き来たれば、わがたみくさの苦悩は解かれる。

南から風の吹くとき、わがたみくさのたからを殖やそう。

と。

されば、いにしえの楽師は暦官を兼ね、春にはじめて南風の吹く日を先知して、その日、族長を南に面した丘に導き、そこで春の女神を迎える祭儀を執り行わしめたという。

一方、殷の紂王は北方のひね曲がったうたを好んだから、四海を支配する王でありながら、その滅亡すること速やかであった。

由(子路)の弾く曲を聴くに、

由今也匹夫之徒、曾無意于先王之制、而習亡国之声。豈能保其六七尺之体哉。

由、今や匹夫の徒、かつて先王の制に意無く、而して亡国の声を習う。あによくその六七尺の体を保たんや。

子路めは現在、ただの一匹狼じゃ。古代の聖王たちの創めた制度を勉強するでもなく、かえって国を滅ぼした紂王が好んだという「北方の曲」を練習しているようである。

国王であった紂王でさえ滅んだのじゃ、あいつなどあの150〜175センチメートルほどの自分の体も無事にすむはずがあろうか。

「ひえー、そんな恐ろしい曲ですか」

冉有はこのことを子路に告げた。

子路は

「ひえー、そうだったのかあ」

とびっくりし、

懼而自悔、静思不食、以至骨立。

懼れて自悔し、静かに思いて食らわず、以て骨立に至る。

恐れて後悔し、じっと考え込んで食事もしなかった。このため、ついに肉が落ち、骨が体表に浮き出すほどになった。

瘦せたのです。

それを見て、孔子はおっしゃった。

過而能改、其進矣乎。

過てばよく改む、それ進めるかな。

間違いに気づいてよくぞ改めたものじゃ。なんと進歩したことではないか。

と。

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「孔子家語」巻八(弁楽解第三十五)より。

孔子(といいますか、古代儒家の)いろんな教訓が詰まった美しい章でございます。が、ゲンダイ人にとっては「音楽で世界を治める」というテーゼがもうすでにありえないことですから、この章から学べるのは「瘦せると誉められる!」ということぐらいかな? おいらは南の海風(はいぬうみかじ)聞きながら考えるよ。

 

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