「おまえはとりあえず苦々しげに漢字でも讀んどればよいのだ」
と怒られましたので、今日は漢字に戻ります。
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孔子の高弟・子路が琴を弾いていた。孔子はこれを聞かれて、かたわらにあった別の高弟・冉有におっしゃられた。
―――ひどいものじゃな、由(子路の名)の能力の無さは。
「とおっしゃいますと?」
―――あの曲は北方の曲ではないか。
「そうです、最近はやりの・・・」
―――それがことよ。
と、孔子の教えて曰く、
夫先王之制音也、奏中声以為節、流入於南、不帰於北。夫南者、生育之郷、北者、殺伐之城。
それ、先王の音を制するや、中声を以て節と為して奏し、南に流入して北に帰せず。それ、南なるものは生育の郷、北なるものは殺伐の城なり。
えーと、古代の聖王たちがいろんな制度を創設していく過程で、音楽というものも創られたわけだが、その際、中庸のとれた音を基準にして曲調を定め、南方に流れていくようなメロディーにして、北方には向かわないようにしたのじゃよ。なぜなら、南というのはものを生み育てる場であり、北と言うのは殺し滅ぼす場であるから。
君子というのは、柔らかで温かい場にあって、生み育てるの力を貯える。憂い悲しむ気持ち、怒り暴れんとする動きを心にも体にるも加えない。これが
所謂治安之風也。
いわゆる治安の風なり。
安らかに治まる「うたの力」というものじゃ。
しかし、ちっぽけな人間にとってはそうではない。
彼らの好む音楽は華麗を競い、微妙な細部にこだわり、それによって殺し滅ぼすの力を現実にしようとする。中庸で和やかな気持ち、あたたかで柔らかな動きを心にも体にも加えない。これこそ、
所以為乱之風。
乱を為すゆえんの風なり。
乱れを起こす「うたの力」というものじゃ。
「へえー、そうなんですか」
―――さて、いにしえのこと。
と、孔子の曰く、
昔者、舜弾五絃之琴、造南風之詩。
むかし、舜は五絃の琴を弾じ、南風の詩を造りぬ。
むかしむかし、聖帝・舜は五本の糸をわたした琴を弾いて、「南風のうた」を作った。
其詩曰、南風之薫兮、可以解吾民之チ兮。南風之時兮、可以阜吾民之財兮。
その詩に曰く、「南風の薫れるや、以て吾が民のチ(いか)りを解くべし。南風の時や、以て吾が民の財を阜(おお)くすべし」と。
そのうたの歌詞にいう、
南から風が吹き来たれば、わがたみくさの苦悩は解かれる。
南から風の吹くとき、わがたみくさのたからを殖やそう。
と。
されば、いにしえの楽師は暦官を兼ね、春にはじめて南風の吹く日を先知して、その日、族長を南に面した丘に導き、そこで春の女神を迎える祭儀を執り行わしめたという。
一方、殷の紂王は北方のひね曲がったうたを好んだから、四海を支配する王でありながら、その滅亡すること速やかであった。
由(子路)の弾く曲を聴くに、
由今也匹夫之徒、曾無意于先王之制、而習亡国之声。豈能保其六七尺之体哉。
由、今や匹夫の徒、かつて先王の制に意無く、而して亡国の声を習う。あによくその六七尺の体を保たんや。
子路めは現在、ただの一匹狼じゃ。古代の聖王たちの創めた制度を勉強するでもなく、かえって国を滅ぼした紂王が好んだという「北方の曲」を練習しているようである。
国王であった紂王でさえ滅んだのじゃ、あいつなどあの150〜175センチメートルほどの自分の体も無事にすむはずがあろうか。
「ひえー、そんな恐ろしい曲ですか」
冉有はこのことを子路に告げた。
子路は
「ひえー、そうだったのかあ」
とびっくりし、
懼而自悔、静思不食、以至骨立。
懼れて自悔し、静かに思いて食らわず、以て骨立に至る。
恐れて後悔し、じっと考え込んで食事もしなかった。このため、ついに肉が落ち、骨が体表に浮き出すほどになった。
瘦せたのです。
それを見て、孔子はおっしゃった。
過而能改、其進矣乎。
過てばよく改む、それ進めるかな。
間違いに気づいてよくぞ改めたものじゃ。なんと進歩したことではないか。
と。
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「孔子家語」巻八(弁楽解第三十五)より。
孔子(といいますか、古代儒家の)いろんな教訓が詰まった美しい章でございます。が、ゲンダイ人にとっては「音楽で世界を治める」というテーゼがもうすでにありえないことですから、この章から学べるのは「瘦せると誉められる!」ということぐらいかな? おいらは南の海風(はいぬうみかじ)聞きながら考えるよ。