いよいよこれまでの仮面を投げ捨てて、肝冷斎の本来の姿に戻る日が近づいているが・・・。まだだ。まだしばらくだけ、コドモのふりをしておくのだ・・・。
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四世紀のはじめ、五胡十六国の先駆けとなった「漢」という國がありまちゅ。
もと匈奴の左賢王であった劉元海は晋に属していたが、あるとき、彼のはるかな先祖にあたる冒頓単于(ぼくとつぜんう)が、漢の高祖との間で、皇族の娘を妻として与えられ、以後代々、漢と「兄弟」となる約を結んだことを知った。
「されば、われら匈奴の王族こそ、晋以前に天下を統一していた漢の「甥」(兄弟の子孫)として、国姓(皇帝の氏)である「劉氏」を名乗り、その後を継ぐものではないか」
と確信した元海は、「劉」を姓とし、晋からの独立を夢見た。
そして、彼の第四子・劉聡が七王の乱による晋の混乱を見て、われわれこそ「漢」を継承するものだ、として建てたのがこの「漢」であります。
その劉聡が晋・元帝の太興元年(318)七月に死にますと、子の劉粲が後を継いで、「漢昌」という元号を立てました。
劉粲は幼いころから文武の才能あり、自ら父の晩年に宰相となりましたが、
威福任情、疎遠忠賢、昵近姦佞。
威福情に任せ、忠賢を疎遠して姦佞に昵近す。
罰を与えたり恩を施したりするのは自分の感情任せ、忠義ある賢者は遠ざけて、へつらい者ばかりを近くに置いた。
というスタイルの上に、
性厳酷、無思恵。
性厳酷にして思恵無し。
性格は厳格で残酷、ひとを思いやったりひとに恵みを与えようなどということはまったく無い。
という方であった。
ところで、彼が即位したとき、
雨血于平陽。
平陽に血、あめふる。
都としていた平陽の地に、血が雨のように降った。
「これは凶事のしるしでございますぞ」
と言上したのは、粲の后の兄弟であり、劉聡の晩年より側近として権力を揮っていた靳準(きん・じゅん)でありました。
靳準は、
「これは下の者が上の者を犯すしるしにございます。今、陛下の地位を狙うのは洛王・劉景さま、昌国公・劉さま、大司馬・劉驥さま・・・。どうぞ一族の方々にお気をつくけくだされ」
と誠実な顏をして言うたのでございます。
劉粲はその言に頷きはしたものの、何の行動も起こさなかった。
「むむむ・・・」
靳準は姉妹の靳后に、
「このままでは、
恐吾家無復種矣。
恐るらくは吾家にまた種無からんことを。
吾が靳家もまったく根絶やしに滅亡することであろう」
と告げ、后からも劉粲に讒言するよう依頼した。
当時、劉粲は、二十に満たぬ若い美女らを何人も寵愛したまい、朝晩無く淫猥のことを繰り広げるのを常としておられたが、中でも靳后のもとにおいて歓楽の限りを尽くしていたから、后の言はすぐに彼の耳に届いた。
靳準の思いのままに、洛王、昌国公、大司馬ら、劉氏の一族は次々に誅殺される。
さらに、最も有力な族人で長安に鎮する劉曜とその右腕・石勒を討伐すべく、ついに靳準を大将軍に命じ、軍国のこと一切を彼に任せて自らは酒色のことに沈溺してしまったのである。
劉曜は英邁な人物である(この後、前「趙」を建国)。また、石勒は有能果敢な名将である(後に独立して後「趙」を建国)。
「・・・これは、勝ち目がない」
と踏んだ靳準は、劉粲の名において従弟の靳明や靳康を将軍に任命して軍権を掌握すると、たちまち謀叛した。
使甲士執粲、数而殺之。
甲士をして粲を執らえしめ、数えてこれを殺す。
兵士らに劉粲を捕らえさせ、その罪を数えて殺した。
さらに、
劉氏男女無少長皆斬于東市。発掘元海聡墓、焚焼其宗廟。
劉氏の男女、少長無くみな東市に斬る。元海・聡の墓を発掘し、その宗廟を焚焼す。
劉氏一族の男も女も、幼きも老いたるもみなひっとらえて、市場で斬殺し、さらしものにした。先祖の劉元海、劉聡の墓をあばいてその骸を辱め、さらには廟堂(おたまや)に火をつけて焼いてしまった。
この行為に、
鬼、大哭声聞百里。
鬼、大いに哭し、その声百里に聞こゆ。
霊魂たちは大いに哭いた。その声は百里かなたでも聞かれたという。
これが、同年八月のことである。
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晋書・劉聡載記(巻102)より。
わずか一か月でこんなことになってちまったのでちゅ。「下の者が上の者を・・・」って、それはお前のことだったのか。オトナの世界はコワいでちゅねー。ニホンでは大丈夫なのかな? 御先祖さまが泣くようなことちないでね。