今日は眠かったが、朝からあちこち彷徨ってきた。そういえば今日は七夕ですか。夏至が6月20日ごろに来る太陽暦を使っていながら7月7日を「七夕」と称する以上、雨の七夕になって「あいにくの・・・」と言い合うのは当たり前ですよね。
・・・・・・・・・・・・・・
「七夕」なので、男と女の物語を、一席。
六朝の一である「宋」(「劉宋」)の時代、浙江・呉郡の銭唐に褚伯玉、字・元璩というひとがあった。
始平太守の褚含を祖先に持ち、父の逿も征虜参軍という貴族の家に生まれたが、若いときから「隠操」(隠逸しようという望み)が強かった。
寡嗜欲。
欲を嗜むこと寡(すく)なし。
世俗の欲望を望むことがあまりなかった。
―――めんどくさいのですが。隠逸したいのですが。
「隠逸だと? いつまでも夢のようなことを言っているわけにもいかんぞ」
と、
年十八、父為之婚。
年十八、父、これが為に婚す。
十八歳になったとき、父は彼のためにヨメをとることにした。
―――イヤなのですが。人間はコワいし・・・。
と言っても誰も聞いてくれません。
―――イヤなのですが・・・イヤなのですが・・・イヤなのですが・・・
家柄もよく、貞淑の誉れも高い同郡の良家の娘をもらうことになったが、その婚礼当日のこと、
婦入前門、伯玉従後門出。
婦、前門に入るに、伯玉、後門より出づ。
新婦がしずしずと家の表門から入ってきたとき、伯玉はたまらず裏門から逃げ出してしまったのである。
新婦が案内された部屋には出迎えるべき新郎はおらず、あわれ二人は織姫と彦星のように一年一回の逢瀬さえならず、そのまま一生涯出会うことがなかったのでございます。
褚伯玉の方は、
遂往剡、居瀑布山。
遂に剡(せん)に往き、瀑布山に居る。
そのまま町の西の方、剡山に登って、山中の瀧のほとりに住みついてしまった。
新婦の方は実家に帰りまして、別の家に仕合せに嫁いでいきましたのじゃ。
めでたし、めでたし。
・・・・・・・・・・・・・・・
さて、褚伯玉ですが、この振舞いについに実家からは縁を切られた。
しかし、彼は寒暑にかかわらずいつも同じ着物を着、木の根などを食ってもまったく苦にならず、
在山三十年余年、隔絶人物。
山にあること三十余年、人物と隔絶す。
以来三十年以上もその山中にあって、ほかの人間とは隔たって暮らしていた。
やがて、名臣・王僧達が呉郡太守となって赴任してきました。
褚伯玉はこのひととだけは付き合うことができたようで、数度、僧達の官邸まで歩を運んで歓談した。
これを聞きつけて、都人・丘珍孫が僧達に手紙を送り、自分も一度、名高い隠者・褚伯玉に会いたいものだとしたためてきたのだが、王僧達、これに答えて曰く、
褚先生従白雲遊、旧矣。
褚先生、白雲に従いて遊ぶや、旧なり。
褚先生が白雲のあとに従ってさまようのは、もうずいぶん昔からのことである。
いにしえより隠逸者と称してはいても、子どもやムスメのことを気にするものもいたし、立派な家に住んで来訪者も多い者もいた。だが、
此子索然唯朋松石、介於孤峰絶嶺者積数十載。
この子、索然としてただ松石を朋とし、孤峰絶嶺に介すること数十載を積す。
この先生はたった一人、松や石を友にして、山中に人を避けて数十年になるのである。
あなたが会いたいと思っても、会うことは至難であろう・・・。
と。
・・・さらに数十年。
宋が倒れ、斉(「南斉」)が建つと、斉の太祖皇帝は呉郡と会稽郡の二郡の太守に命じて、厚い礼を以て褚伯玉を招いたが、病いと称して応じなかった。
帝はいたしかたなく、勅命によって剡山の中に太平館という建物を作り、伯玉をそこに住まわせた。すると、伯玉は館の隅の二階建ての建物に昇って、そのままそこから降りて来なくなった。そして、その年(建元元年(479))のうちに亡くなった。年八十六。
彼の晩年暮らしていた建物の下に礼を以て葬った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
南斉書・高逸伝(巻54)より。
後に盛唐の詩人・孫逖(そんてき)は、浙江・雲門山に登り、西隣に瀑布山を望んで、一篇の五言律詩「宿雲門寺閣(雲門寺の閣に宿る)」(「唐詩選」所収)を賦したのである。
その末聯に曰く、
更疑天路近、 更に疑うらくは天路に近く、
夢与白雲遊。 夢に白雲と遊びしか、と。
よくよく考えるに、わたしは天上へ続く道の入口である「雲門寺」に泊まった際に、
夢の中で褚伯玉とともに、白雲に従ってふらふらしていたような気がするのである。
そうですよ、わたしも隠逸者の一人として、その側にいたような気がしてきますぞ。
そういえば、岡本全勝さん。HPの更新もせず、隠逸してしまったのかと思ってましたが、復活したみたいです。見に行ってみて。→岡本全勝さんのHP