平成24年7月2日(月)  目次へ  前回に戻る

 

まだ月曜日だよ。しかも七月に入ったばかりで夏休みもずっと先。子どももまだ大変でちゅね。

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おいら肝冷斎二世は隠逸系の童子だから、のほのほほんとして毎日を暮らしておりますが、受験して社会内でのし上がっていこう、という系の童子はむかしもたいへんだったようでちゅよ。

科挙試験に童子の受ける「童子科」というのが設けられたのは唐の時代だったのだそうで、

凡十歳以下、能通一経及孝経、論語毎巻誦文十通者与官、七者与出身。

およそ十歳以下、よく一経及び孝経・論語に通じ、毎巻文を誦して十通する者は官を与え、七者には出身を与う。

十歳以下の子どもで、五経のうちの一と孝経と論語の三分野に詳しく、一巻づつ暗唱していって十巻まで行った者には役職(俸禄が出る)を与え、七巻まで行ったものには「童子科出身」の称号(税金が軽減される)を与えた。

のが始まりである。

宋代になってから「童子科」は大流行りになり、ついに

有由童子科被遇至宰相、如晏元献(殊)、是也。

童子科より遇せられて宰相に至るも有り、晏元献(晏殊)の如き、これなり。

童子科の合格者で、厚遇されて宰相にまで登り詰めた者も出た。(詞人としても名高い)晏殊(字:元献)などがそれである。

ただし、晏殊は「童子科」に合格した後、十四歳で「進士出身」も賜っているので、単なる「童子科」出身者ではない、ともいわれる。

宋代の「童子科」ブームからは、さらに次のようなヒーローが生まれた。

真宗(在位998〜1022)の時代の蔡伯希は、僅か三歳で皇帝の面前で試験を受けた。真宗が彼に賜った詩、

七閩山水多才俊、  七閩の山水、才俊多く、

三歳奇童出盛時。  三歳の奇童、盛時に出づ。

七つの県から成る閩の山と水は多くの俊才を生み出し、

三歳のすごい童子が太平の世に出てきおったのじゃ。

は有名である。

南宋の高宗(在位1127〜1162)のとき、劉某はわずか五歳ながら、武官の童子試を受け、

善騎射、補校尉。

善く騎射し、校尉に補す。

騎馬と弓射の試験に好成績でパスし、士官に任命された。

童子能武尤奇。

童子の武をよくするは尤も奇なり。

童子で、武技にすぐれ、武進士になる、というのはたいへんすごいことである。

さらに、孝宗の淳熙元年(1174)夏には、

女童林幼玉求試。

女童・林幼玉、試を求む。

女の子・林幼玉ちゃんが受験を求めてきまちた。

中書省に属する女官が四十三の問題を出したところ、幼玉ちゃんはすべて正解。特別に「孺人」(女侍従)の官を賜ったのでございまちゅ。

みなちゃん、すごいでちゅねー。

なお、明代以降の「童試」というものは少し性格が違い、これは

俗謂為小試。

俗に謂いて小試と為す。

一般に、「初等試験」ともいう。

ものである。郡県の学校に入るための最初の試験で、

応試者命曰童生。雖壮丁老叟、但与試、皆得以童称之。未冠者曰幼童。

試に応ずる者は命じて童生と曰う。壮丁・老叟といえどもただ試を与え、みな得て「童」を以てこれを称す。いまだ冠せざる者は「幼童」と曰う。

この試験を受けた者はみな「童生」と呼ばれるのである。いい歳をしたおっさんや、じじいでも、試験を受けさせて、誰にでも「童」(児童生徒)と呼ぶのだ。その中で、成年式をすませておらず、冠をかぶっていない子どもがいると、わざわざ「子どもの童」と呼ぶことになっているのである。

のである。

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清・周寿昌「思益堂日札」巻四より。

みんな勉強してかしこくなってね。肝冷斎は隠逸しますけどねー。ぶははー。さらば。・・・その前に岡本全勝さんのHPを覗きに行ったらこの数日更新されていないぞ。でも、まあ、さらば、現代社会よ。

 

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