平成24年6月28日(木)  目次へ  前回に戻る

 

昨晩は「若い男女」に交わって(笑)飲食す。帰ってきて風呂の中で寝てしまった。そして朝起きたら肩甲骨の裏側が痛い。痺れる。これ、○筋梗塞では?

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一昨日の続き。

請纓繋南粤。  纓(えい)を請うて南粤(なんえつ)を繋ぐ。

「纓」は冠の紐。「南粤」は漢代、広東にあった「粤」(えつ)国のこと。

冠の紐をもらって、南粤の王を縛りあげる。

と言っております。

なんのこっちゃ。

これは、漢の説客・終軍の故事を踏まえているのである。

漢書・厳朱等伝(巻六十四下)に曰く、

終軍(しゅう・ぐん)は字・子雲、済南の人なり。

若きより学問を好み、年十八にして博士弟子となって都に昇り、武帝に上書して時世を論じて認められ、謁者給事中(侍従みたいなもの)に任ぜられた。

時に、一角にしてひづめの五つに分かれた白い麒麟が捕らえられ、また枝別れしたあと先の方でまた一つになる不思議な木が見つかったので、武帝が群臣にこれを示して意見を求めたことがあったが、これに対して即座に、

臣聞、詩頌君徳、楽舞后功、異経而同指、明盛徳之所隆也。

臣聞く、詩頌は君の徳、楽舞は后の功、経を異にするも同じく指して、盛徳の隆(たか)ところを明らかになり。

わたくしはこのように聞いております。うたとほめうたは王者の徳をうたい、音楽と踊りはお妃さまの功績をほめたたえるもの、と。今回の二つのものはうたや踊りではございませんが、同じように皇室の徳のますます盛んになることを示すものにございましょう。

と答え、高く褒められたのであった。

このころ、南越南粤も同じ)の国は葦に覆われ、鳥や魚の群れに隠されて、漢の暦に従おうとしなかった。そこで朝廷ではだれか威儀ある者を遣わして南越王を長安まで朝勤に来させることを決めたが、しかるべき大臣に適当な者が無い。終軍は進み出て、

願受長纓必羈南越王而致之闕下。

願わくば長纓を受けて、必ず南越王を羈(つな)ぎ、闕下に致さん。

陛下の冠の長いひもを賜りくださいませ。そうすれば、それによって南越王を縛り上げ、このきざはしの下まで引っ張ってまいりましょう。

と申し出た。

武帝はたいへん喜び、終軍に手厚く引き出物を持たせて広東に遣わす。

終軍は南越王に説き、ついに漢に内属(ないしょく。漢帝国の内部の一地方となること)することを誓わせた。

武帝、その知らせを受けて大いに悦びたまい、軍に「南越大臣」の印を賜うとともに、南越国内に新たに漢と同じ法を施行させ、軍をその責任者に任じたのである。

しかし、南越王の宰相であった呂嘉はこのことを楽しまず、ついに兵をあげて、南越王と終軍はじめ漢の使者たちを殺害してしまった。

終軍死時年二十余。故世謂之終童。

終軍、死時に年二十余なり。故に世にこれを「終童」と謂う。

終軍は殺された時、まだ二十歳を過ぎたばかりであった。そこで、彼の死が伝えられたとき、ひとびとは彼のことを「終の童子」と称した。

まだお子ちゃまなのに、でかいことをした、と称賛したのである。

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うふふー。肝冷斎もいい子ちゃんにしてみんなに褒められたいなー。

ではまた明日。

 

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