昔の仲間と飲んで、酔ったでちゅう。
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酔った勢いで筮竹替わりに「周易程伝」(北宋・程伊川の「周易」の解説書。典型的な「義理易」(易経を占いの書ではなく思想書として読む考え方)の書である)を
「えいや」
と開いたら、「大畜」の彖伝(卦辞への注釈)が出た。
「大畜」は○=陽、●=陰で、下から爻を並べると○○○●●○という形になる卦です。その卦辞に曰く、
大畜利貞。不家食吉。利渉大川。
大畜は貞しきに利あり。家食せずして吉。大川を渉(わた)るに利あり。
これを「占断易」(易経を占いの書として読む考え方)的に読みますと、
「大畜」の卦が出たら、正道を守っていればよい。家で食事しないとよいことがある。大きな川を渡ってもよい。
となり、自分のいま置かれた状況に当てはめ(解釈し)て、いろいろ解釈することになります。例えば転職を考えているひとなら「大きな川を渡ってもよい」というところを当てはめて、大きな行動を起こしてもよい時なのだ、と判断しますし、実家から通えるところと、遠く離れたところにそれぞれ就職の内定をもらったひとなら「家で食事をしないとよい」というところを当てはめて、実家から離れる方がよい時節なのだ、と判断します。
ちなみにわたくしは、わたくしの置かれた状況に当てはめて、
「今日は昔の仲間と会食して食べすぎた、という点で明らかに「大いに蓄える」の「大畜」だが、今日からあまり食べ過ぎずおとなしくしていれば(「貞」)よいに違いない。何にしろ、家ではなく飲み屋でメシを食った方がよい運勢だったのだ。明日もいいことあるかもね。」
と解釈してみました。
とりあえず「占断」としては納得したーーー!
ところが義理易になると理屈っぽくてめんどくさいのでス。「程伝」を引きますと、
・・・・立派なひとが自分の内面を充実させる。すると高い位について大きなしごとをすることになる。そのときには、
為於天下則不独於一身之吉、天下之吉也。
天下におけるやすなわち独り一身の吉のみならず、天下の吉の為にすなり。
天下においては、自分ひとりがよければよい、と思って行動するのではなく、天下すべてがよくなるように、と思って行動する(べき)ものなのである。
そういひとが、もししごとに恵まれず、自分の家で(農業をして)食っていくようであっては、あるべき「道」を否定することになる。このことを「易」では、
不家食則吉。
家食せざればすなわち吉。
家で食べることがないというのが、あるべき姿である。
と言っているのだ。
所畜既大、宜施之於時済天下之艱険。乃大畜之用也。
畜わうるところ既に大なれば、よろしくこれを時に施し、天下の艱険を済(すく)うべし。すなわち大畜の用なり。
(内面に)充実させたものがもう十分大量であれば、次にはこれを現実の世界に展開してやり、世界の困難を解決してやらねばならない。「大いに蓄える」ということの「はたらき」がここにあるわけだ。
「大きな川を渉ってもよい」というのは、「大いに蓄える」ということの意義から敷衍して(蓄えたものを使うには大河を渉るような決断がいるということを)言っているだけなのである。
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といろいろ理屈ばっかり。すべてが「人たるもの、こうあるべき」調の説教になるのである。
ただ、「義理易」は嵌まると「このひとたち、こんな屁理屈を考えてこういうふうに説教するのか、おかしなひとだなあ」と、人間の思考の多様性に目をみひらかされて、読むほどにオモシロくてしようがないのも確か。
・・・・ようやく酔いも醒めてきたので、「易」はほんとに詳しいひとがあちこちにいますから、あんまりエラそうなこと言っていると嗤われるかも知れないので、もう止めます。