この数日寝ている間に世間には少し動きがあったようじゃな。式神たちが何やら騒いでおるわ。ふむふむ・・・なんと、爆弾娘がつかまったじゃと?
ちなみに金曜日〜日曜日にかけてわしの姿を見た者があったとしたら、それは本体ではございません。本体はずっと寝ていたのだからな。
頭が痛かったのですが、腹も減ったのでさすがに今日は病床を脱け出してふらふらと町に出た。
町中でひとさまから聴いたことを、そのまま話します。
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七福神が一緒に出かけましたとさ。
と、向こうから、
破団扇(やぶれうちは)の二本道具にて、同勢数多(あまた)召具し来れる人あり。
破れたウチワの指物を左右に持たせて、同じような姿の仲間うちをたくさん引き連れたひとがこちらに向かってくるのに出会った。
七福神の中でも豊作と富貴をつかさどるという大黒さま、その行列を望み見て、
「おう」
と声をあげられ、
大黒殿急ぎ俵より飛下り路傍に控へ、恭しく会釈せられけり。
大黒さまは大急ぎで乗っていた俵から飛び降り、道端にその行列を避けて、うやうやしく頭を下げたのであった。
ほかの五神はそのままに通り過ぎたが、毘沙門神が大黒さまをとがめだてて、曰く、
「今の行列は貧乏神ではござらぬか。本来あちらこそわれらを避けて通るべきもの、
貴殿の如にては、向後我等始(われらはじめ)、同席の格式に障り可申(もうすべし)。
本来富貴をつかさどるべき貴殿がかような御振舞をなさるようでは、今後はわしらも、貴殿と同じ席にすわるようなおつきあいはでき申さぬぞ!」
と、苦々しげに言うて、唾を吐いた。
すると、
大黒殿莞爾(にこにこ)と打笑ひ、
大黒さまはにこにことほほ笑みになられながら、
「毘沙門どのは武神でござれば格別でござろうが、以前の格式はともかくも、
当時あの人の威勢には叶ひませぬ。
現代では、あの貧乏神さまの御威勢にかなうものはございませぬ。」
とおっしゃった。
さすがに大黒さまは時世の変化をよく御存じ(「大黒知時」)であったということじゃ。
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「己丑漫録」(「続道聴途説」)第二編より。同書は越前・鯖江藩儒・大郷信斎が在藩の藩主に送った江戸の事件の聞き書き集だということです(三田村鳶魚「鼠璞十種」所収)。己丑年は文政十二年(1829)に該たります。大郷信斎は江戸のひと、名は良則、通称は金蔵。江戸城南の麻布村に居したため、麻布村学究、城南読書楼主人とも号す。昌平黌に学んで林述斎、佐藤一斎を師とした。弘化元年(1844)に七十一歳で卒した、ということである(「漢文学者総覧」)から、これを書いたころは五十代後半の分別盛りであったのでしょう。にやにやしながら書いたのかな。
さて、デフレ、ナマポ、TPP、貧困死・・・。貧乏神の御威勢は、おそらくこの二十年ですさまじいものになっておられることでありましょう。幕末や昭和恐慌のようにまたまた体制を滅ぼすまで突き進むのかな?