もう年です。疲れやすいお年頃なんですわ。しかし、この世の中には年老いてから多くを成し遂げたひともある。
伝説の中のひととはいえ、周の文王、武王を支えて王業をなさしめ、斉に封建された太公望・呂尚(「封神演義」の主人公でもありますね)もそうであります。
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戦国末に、宋玉が
太公九十乃顕栄。
太公九十すなわち顕栄す。
太公望は九十歳で高名となり栄達した。
とうたっており、また前漢の東方朔は
太公七十有二、設謀於文武。
太公七十有二して、文武に謀を設く。
太公望は七十二歳になって、文王・武王のためにはかりごとを立案した。
と言うている。この二説を合わせると、太公望は七十二歳で周の天下奪取のプランナーとなり、九十歳ぐらいには功成り名を遂げたように思われる。
ただし、太公望はいったいいくつのときに文王に仕えて栄進し、いくつの歳まで活躍したのかについては、ほかにも多くの説があるのである。
(戦国)
荀子:太公望が人民から抜擢されたのは七十二歳の時であった。
鄒衍:太公望は七十歳で周の相(大臣)となり、九十歳のときには(周の天下となって)斉に封ぜられた。
(漢代)
説苑:呂望は年五十のときには棘津の町で弁当屋(「売食」)をしていた。年七十のときには殷の都・朝歌で牛の屠殺をしていた。年九十のときには天下を保つ周王の師の地位にあった。
淮南子:呂望は年七十のときに初めて兵法を学び始め、九十のときには武王を助けて殷の紂王を討伐したのである。
(三国)
魏志:尚老人は九十歳のときに(将軍のしるしである)旗さしものと刑罰用のまさかりを与えられた。(九十で軍師となったのである。)
(唐代)
白楽天:太公望は七十にして文王の知遇を得た。
・・・・・・・さてさて。
太公望が文王にはじめて遇うたとき―――文王が、「このひとこそ祖父の太公が望んでいたひとじゃ」と惚れ込んで、鈎をつけない釣り糸を垂らしていた呂尚に
釣れますかなどと文王側に寄り (江戸川柳)
声をかけたのは、太公望がいくつであったのか、については正史に記載が無いことである。
ある書物(「雒師謀注」)には、
文王は悪政を行う祟侯を討伐したが、そのとき、祟侯の領内の川で釣りをしていた太公望を見つけたのである。
と書いてある。
しかし、別の書物(「尚書伝」)には、
後に周の初期の重臣となる散宜生(さんぎせい)、南宮括(なんきゅうかつ)、閎夭(こうよう)の三人は、みな太公望のもとで学んでいた。四人は、文王(当時の西伯)が殷の紂王によって羑里(ゆうり)に幽閉されているとき、その軟禁場所に出かけて行って面会したのである。
とある。
「史記」(斉世家)では、
西伯時代の文王が、虞の国と芮の国の争いを仲裁し、祟侯を討伐し、豊邑に周の本拠地を築き、ついに天下の三分の二が殷ではなく文王のもとに参勤するようになったのは、太公望のはかりごとに拠るところが多い。
と書かれているので、これによれば太公望が周に仕えたのはかなり早い時期ということになる。
また、「春秋左伝」では、
呂伋は王の舅たり。
と書いてあり、太公望・呂尚が武王の后の親父であったとされているのである。
文王や武王が王の舅となるひとを軽々に選ぶはずがない。必ず、文王は太公望を抜擢してから、互いにその人となりをよく知りあって、
然後以武王娶其女。
しかる後に武王を以てその女を娶るなり。
それからようやく、武王の嫁にして、太公望の娘を自分ちの嫁にしたのにちがいない。
しかしながら、文王が殷の紂王を討伐せんと心に決めたときには、息子の武王は
已八十二矣。
すでに八十二なり。
もう八十二歳だったのである。
このとき前後にひとの娘を娶る、ということはないであろう。
そうすると、ずいぶん長い期間さかのぼらねばならないのかも知れない。
難以稽考。
以て稽考し難し。
本当に考証するのが難しいことである。
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宋・王勉夫「野客叢書」巻二十八より。ひどいではありまちぇんか。ここまで引っ張っておいて「考証不能」とは。
明日はどうやったらみんなこんなに長生きできるのかについて、考えてみまちょー。(ホルムアルデヒドの水道水飲んだり低線量被曝してもいいのかちら?)