平成24年5月8日(火)  目次へ  前回に戻る

 

今日も会議中寝てしまった。すっきりしませんねー。

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最近、角川文庫の「現代詩人全集」全十巻(昭和38年版)を読み始めています。わたしは昭和の戦後詩を荷ったひとたちというのは、実は明治期に漢詩に血道をあげていた若者たちの焼き直しだ、と思っております。少なくとも、結社を構成して詩を作ることが社会的に「かっこいい」ことであった中で詩作をしていた、という点は瓜二つです。

・・・と思いつつまだまだすっきりとまとまりませんので、今日はチュウゴクの詩人のことでも話しましょう。

明の東橋居士・顧璘は字を華玉といい、祖先は浙江・呉県のひと、江蘇南京の上元に移籍して弘治九年(1496)の進士で、官歴は南京刑部尚書にまで至った。同じく南京育ちの陳沂(ちんき)、王韋とともに「金陵三俊」(金陵は南京の古名)と称された詩人でもありました。自分の地位・才能をかえりみずにすぐれた後輩を見出し育てることに熱中したひとで、たとえばこんなエピソードが伝わる。

浙江にあったとき、孫太初の風流を聞き及んで面会したいと考えたが、なかなか会えない。

そこで一計を案じ、ある春の夕暮れ、道教徒の着るゆったりとした服を着、頭巾で頭を包んで太湖の上に舟を浮かべた。

やがて、

月下有舟泊断橋下、一僧、一鶴、一童子煮茗。

月下に、舟の断橋下に泊し、一僧、一鶴、一童子と茗を煮るあり。

月の下、別の一艘の舟が(名勝の)断橋のほとりに舫って、(一人の男と)僧侶一人、鶴一羽が同乗して、童子がお茶を煮ているのを見つけた。

すると顧璘は笑って、

此必太初也。

これ、必ず太初ならん。

「この舟はぜったい孫太初の乗っている舟じゃな」

と言いまして、

移舟就之。

舟を移してこれに就く。

舟を寄せ、その舟に乗り移った。

孫太初は驚いていたが、来意を知って大いに喜び、

遂往還無間。

遂に往還に間無し。

それからはいつも行き来するようになった。

―――ああ、いい話だなあ。すっきりしたー!

顧璘は、詩は唐を学び、「古雅を尽くさず、風調を以て勝さる」(古典的な雅びは完全ではないが、調べと風情はすぐれていた)といい、その詩文集を「顧華玉集」という。

人去天涯春草緑、  人は天涯に去りて春草緑に、

望迷江上暮烟平。  望めども江上に迷う 暮烟平らかなり。

春草みどりに萌えるころ、おまえさんは天の涯までの旅に出る。

夕暮の靄が一面に立ちこめて、川のあたりを望み見てももうおまえさんの舟は見えない。

といった名句(「朱子介を送る」)もある。

彼が中年にして広西巡撫に赴き、そのおりに南方の風俗を詠んだ絶句を作っております。「遣懐絶句」(思っていることを書き出してすっきりするうた)七首がそれである。

ここではそこから、少数民族の若者たちの生き生きした姿を描いた一首と、人も至らぬ深山の春の様子を描いて「精妙」の評ある一首を紹介してみます。

傜女招歌劇、  傜女の招き歌 劇(はげ)しく、

蛮郎歩射強。  蛮郎は歩射 強なり。

花環垂耳大、  花環は耳に垂れて大に、

竹弩掛腰長。  竹弩は腰に掛かりて長し。

「傜」(ヨウ)とは広西の少数民族「瑤族」(ヤオ族)のこと。

ヤオの女が男を誘う 誘い歌は激しいリズム

男は徒歩弓の名人ばかり 剽悍で健やかな四肢

むすめの耳には花を飾った大きな耳輪

男の腰には長ったらしい竹の弓

澗冷菖蒲翠、  澗(たに)冷ややかにして菖蒲は翠、

山春躑躅紅。  山春にして躑躅は紅なり。

草驚秋尽火、  草は秋尽くるの火に驚き、

樹厭夜深風。  樹は夜深きの風を厭う。

「秋尽くるの火」というのは、山中の焼畑農業における山焼きのことを言っているのだと思われる。

 谷水は冷たいが菖蒲の葉はあおあお

 山中に春がきてつつじの花があかあか

 草は(ようやく芽吹いたのにもう)秋の終わりの山焼きの火かとびっくり

 木々は夜更けの寒風にもう飽き飽き

これらは当時「清新」と評され、詩壇に大きな波紋を起こしたということだ。

しかし、こんなに才能も人格も立派なひとなのに、「四庫全書総目提要」

在正嘉間固不失為第二流之首也。

正・嘉間に在りて第二流の首たることを失わず。

正徳(1506〜21)・嘉靖(1522〜66)において、二流詩人たちの第一人者、という地位を占めていたといえよう。

と言われるのである。世の中厳しい。

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「列朝詩集小伝」丙集等より。

なお、本日から諸事情によりまして、わたくしの名前が「肝冷斎」から「黒田肝兵衛」に変わりました。よろちくねー。

 

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