昨日からまた頭が頭痛なんですわ。
なのでもう寝ます・・・と思ったのですが、二日続けてサボってしまうとこの先ずっとサボってしまいそうなので、今日は更新するでやんす。今日はみどりの日ですので、花木草竹に関わることを話しましょう。
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伶人(芸人)の焦徳という者、北宋の徽宗皇帝の寵愛を受けておった。
ある日、帝に伴って艮嶽(徽宗帝が道教信仰に基づき宮中に設けた築山)に登った。
帝、艮嶽に一面に植えられた花・竹・草・木を指さされ、
以詢其名。
以てその名を詢(と)う。
「おまえ、これらの名を知っておるか?」
と御下問になられた。
芸人風情にマジメに下問するはずはない。もちろん、戯れられたのである。
焦徳、にこりともせずにお答え申し上げて曰く、
皆芭蕉也。
みな芭蕉なり。
「ああ、これはすべて芭蕉にございますな」
「はあ? 何を言っておるのだ」
帝は、その意を詰問なすったのじゃ。すると焦徳、まじめくさって答えて曰く、
禁苑花竹、皆取諸四方、用於民力。在途既遠、巴至上林、則已焦矣。
禁苑の花竹はみなこれを四方に取り、民力において用う。途にあること既に遠く、巴(把)して上林に至ればすでに焦げたり。
「宮中の庭にあります花や竹は、すべて国の各地から、人民のたいへんな労力を犠牲にして運ばれてきたものでございます。ここまでの道のりは遠く、束にしてこの皇帝の森林に持ち込まれたのですから、途中の激しい労力によりすでに焦げ付いていて当たり前。
把して焦げた草木、ということでございますから「芭蕉」とお呼びしたまでにございます」
「なんとのう」
上、大笑。
上、大いに笑う。
帝は高らかにお笑いになられた。
焦徳も、また周囲の側近たちも大いに笑うた。
ああ、明るい宮廷ですなあ。さすがは中国史上屈指の粋人皇帝であります徽宗さまだ。
これが宣和年間(1119〜25)のこと。1126には靖康の変が起こり、北宋帝国は滅亡、徽宗帝はむすこの欽宗帝ともども金国に拉致され、悲惨な晩年をお迎えになられるのでございます。
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清・鰥鰥子・金埴「不下帯編」巻六より。
「○点」の「大喜利」とかこのレベルですよね。腹が黒い、という○遊亭なんとかさんが「お上」を批判して時々拍手をもらったりしております。多少のまともなことをまぶして、耳触りのよいことを言う「芸人」「評論家」を重用し出しますと、国が亡びるのでございますよ、主権者さま。・・・あ、もう手遅れか。