昨日は所用のため更新できず。所用のあと、疲れて逆にほとんど眠れませんでした。今日は早く寝ないと明日○○ドームに行けない・・・。
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なのでもう寝ます・・・と思ったのですが、そういえば一昨日、自分で自分に宿題を出していました。これに一応回答しておかないと寝覚めが悪いね。
三百六十日、 三百六十日、
日日酔如泥。 日々酔うて泥の如し。
雖為李白婦、 李白の婦(つま)たりといえども、
何異太常妻。 何ぞ太常が妻に異ならん。
一年間、三百六十(五)日の間、
毎日毎日「泥」のように酔っぱらっている。(このためお前の夜の相手もしてやれぬ)
李白の女房だというけれど、
あの「太常」さんの奥さまとどこが違うのか。(いつもすいません)
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「太常さん」とは誰なのか。どんなひとなのか。そして、その奥様てどんなことしたの?
「後漢書」巻109下(「儒林列伝下」)に曰く、
周澤、字は稺都、北海・安丘のひとである。若くして春秋公羊学派の厳氏の学を修め、野にあって教授したが門徒は常に数百人をかぞえたという。
建武(光武帝の年号、紀元25〜56)の末年、招かれて大司馬府の議曹祭酒となり、数月にして徴試博士、中元元年(56)に黽池令、永平五年(62)右中郎将、同十年(67)太常の官を拝した。「太常」というのは国家のための祭祀をつかさどる官職である。
周澤は曲がったことがきらいで、汚職した者は大臣であっても忌憚無く批判したので、同じように直言を以て名高かった孫堪、字・子稺とともに「二稺」と並称され、時の明帝の信任もすこぶる篤かった。十二年、抜きんでられて司徒(大臣クラス)となったが、その性格はたいへん簡易で威儀を保たないことが多かったので、数月にして罷免され再び太常に戻ったという。
業務への精励甚だしく、太常官にあるときは常に祭祀の場である宗廟に宿直して物忌みを保っていた。
あるとき、病んで廟堂中で寝込んだことがあり、その妻、その看病に赴いたところ、
澤大怒。以妻干犯斎禁、遂収送詔獄謝罪。
澤は大いに怒る。妻を以て斎禁を干犯せりとして、ついに収めて詔獄に送り謝罪す。
周澤は激怒した。そして、妻を、女人禁制を破った罪を以て逮捕し、送り状を付して牢獄に入れ、天下に罪を謝したのであった。
当時のひと、この行為を「詭激なり」(人々の喝采を得ようとしてやりすぎた)として、歌いて曰く、
生世不諧作太常妻。一歳三百六十日、三百五十九日斎、一日不斎酔如泥。
世に生まれて諧(たのし)からざるは太常の妻に作(な)ることぞ。一歳三百六十日、三百五十九日は斎して一日斎せざるも酔うこと泥の如し。
この世に生まれて楽しくないことは、太常さまの奥さまになることじゃ。
一年三百六十日、そのうち三百五十九日はものいみ中、あとの一日はものいみ明けだが、「泥」のように酔っぱらって役立たず。
と。
ということで、「太常さまの奥さま」はこの周澤の妻のこと。このひとは一年のうち359日は女人禁制、あとの一日だけが物忌み明けで、この日は酒に酔って性生活が営めない、というのです。李白は、おれは物忌みは無いけど、360日全部酔っぱらっているので営めない、のでお前の境遇は似ているなあ、といっているのであった。
A
(周澤伝でも出てきましたが、)「泥酔」とはどんな酔い方か。
ふつうには「どろのように酔う」ことだと思うでしょう。が、みなさん、「どろ」が酔っているのを見たことがありますか。
「泥」は「どろ」ではないのである。
「異物志」にいう、
南海有蟲、無骨、名曰泥。
南海に蟲あり、骨無し、名づけて「泥」(でい)と曰う。
南の海の地方にドウブツがある。このドウブツ、脊椎が無い。「泥」(デイ)と呼ばれる。
この「泥」なる生物は
在水則活、失水則酔、如一堆泥。
水に在りてはすなわち活し、水を失えばすなわち酔いて、一堆の泥の如し。
水中にあるときは活発に活動するが、水中から出すと酔ったようになり、まるでひとかたまりの泥(どろ)のようになってしまう。
だから「泥」というのですが、この泥(でい)のように人が酔うのを「泥酔」というのである、と。
なるほど。
―――ここで少しまともな人ですと、
「ちょっと待ってくれ。
ア 人が泥(でい)のように酔うから「泥酔」という。
イ 泥(でい)は酔って泥(どろ)のようだから「泥」という。
この二つの命題を合わせると、
ウ 人が「泥」(どろ)のように酔うから「泥酔」という。
という命題が導けてしまうので、「泥酔」をわざわざドウブツの「泥」(デイ)にからめて説明する必要はないのではないか?」
と考えるでしょうが、むかしの東洋にまともな人なんかいなかったのでしょう、古い書物に書いてあるのだからしかたありません。
ということで、「泥のように酔う」というのは、酔って、南の海に棲む「泥」(でい)が水から出たときのように、不活性化して死んだようになる、という状態をいうのでした。
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ここまで来て、
「さあ、寝るか」
と思ったところ、
「おい、それで終わりか」
気難しそうなおじさんが声をかけてきました。
「は、はあ・・・(これは趙宋の王勉夫だな。考証大好きだからうるさいぞ)」
「南朝の宋の孔覬(こう・き)のことを論じないとダメではないかね」
「は、はあ・・・」
南朝宋の孔覬は、字を思遠といい、会稽・山陰のひと。生まれつき権力者や貴人に媚びることを嫌い、明帝のもとで太子・事に至ったひとである。
試みに「宋書」巻84の「孔覬伝」を閲するに、
―――孔覬はたいへん有能であったが飲酒癖があった。
雖酔日居多、而明暁政事、醒時判決未嘗壅。
酔日の多に居るといえども、政事に明暁にして、醒時に判決していまだかつて壅(ふさ)がることなし。
酔っている日が多いのだが、行政事務にはたいへん明るく、酒から醒めているときに決裁をして、一度でも判断が止まることがなかった。
そこで、当時のひとたちはいい囃したものである。
孔公一月二十九日酔勝他人二十九日醒也。
孔公の一月二十九日の酔いは、他人の二十九日の醒に勝るなり。
孔さんは一か月30日のうち29日酔っていても、ほかのひとが30日中29日しらふでするシゴト以上のシゴトをしてしまう。
と。
「このことですね」
「そうだ」
気難しそうな王勉夫は頷き、さらに続けて言いますには、
一則一年一日酔、一酔如此不暁事。一則一月一日醒、一醒如此弁事。
一はすなわち一年に一日酔うのみなるも、一酔して事に暁らかなざらることかくの如し。一はすなわち一月に一日醒むるのみなるも、一醒して事を弁ずることかくの如し。
後漢の太常の周澤は一年に一日酔っているだけなのに、その一日の酔いで物事をぶち壊してしまったのだ。一方、南朝の孔覬は一か月に一日しか酒から醒めていることが無かったのに、その一日の醒めているうちに物事を次々と判断できたのだ。
人間とはなかなか努力どおりにはならないものだなあ。
そこで、わしはある酒場に次のような対聯を書いてやったことがあるぞよ。
一月二十有九日、笑人世之太狂。 一月の二十有九日、人の世のはなはだ狂えるを笑う。
百年三万六千場、容我生之長酔。 百年は三万六千場、我が生の長しなえに酔えるを容る。
一か月のうち二十九日までは、(孔覬さんに倣って)酔っ払い、ふつうのひとたちがトチ狂ってマジメに生活しているのを笑っていよう。
人生百年として三万六千回の日があるが、その間、永久にわしは酔っぱらったままでいてもいいんだがなあ。
どうだ、なかなか佳くできておるだろう。わしの著書「野客叢書」巻十七にも書いてあるぞ。
「すばらしいでございますねー」
とすりすり誉めてみたら、王勉夫、気難しい顔を崩して、「うははははー」と大笑い。大したことないようである。
ところで心しておかないといけないことがいま一つある。
愚直に三百五十九日物忌み潔斎していた後漢の周澤は、妻を獄に送って謝罪した数年後には致仕(退職)し、その後「家に卒す」(自宅で平穏に亡くなった)のであるが、一月二十九日酔っぱらっていても有能で名高かった南朝の孔覬は、後反乱に座して死を賜ったことである。
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休前日は筆(キーボードですが)が進みますね。