スカッとしたいですね。
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懶真先生・馬永卿が言うには、
漢初去古未遠、風俗質略。
漢初はいにしえを去ることいまだ遠からず、風俗質略なり。
漢の時代の初めごろ(紀元前3世紀の末ごろ)は、まだまだ原始の時代から何ほども経っていない。だから、その時代の風俗は質実でおろそかなものであったのじゃ。
たとえば、と先生は続けた。
・・・「史記」や「漢書」の記すところによれば、
太上皇無名、母媼無姓。
太上皇に名無く、母媼に姓無し。
漢の初代皇帝である高祖・劉邦の父上は(姓は「劉」ということになるが)名前が無いし、おふくろさまには姓がない。
まだ一人一人が固有の名を持たず、また姓が無くてもおそらく出身地や「○○の父・母」という言い方で誰のことか通じた時代であったのである。
ところが、後世になると要らんことをつけ加えないと気のすまぬやつらが現れた。
唐書の「宰相表」には、
太公名煓、字執嘉。生四子、伯仲邦交。邦、即漢高帝也。
太公は名「煓」(タン)、字は執嘉。四子、伯・仲・邦・交を生ず。邦はすなわち漢の高帝なり。
高祖のおやじどのの名は「煓」(たん)といい、字は執嘉というた。四人の子があり、上から伯、仲、邦、交という名前であった。三男の劉邦が、すなわち漢の高祖である。
と訳知り顔に書いてあるのである。
漢史不載其名、唐史乃載之。此事亦可大笑。
漢史にはその名を載せず、唐史にすなわちこれを載す。この事、また大いに笑うべし。
漢の時代の歴史書には名前が書いてないのに、唐の時代の歴史書には書いてある。これは、なんと大いに笑うべきことではないか。
そう言うて、先生は大笑いしはじめた。
「がはははははははははははは・・・・・」
ええい、うるさい!
「いい加減にしなされ!」
わしは怒鳴ってしまいました。
よろしいか。
「史記」や「漢書」はそうかも知れませんが、「後漢書」を開くと、「章帝本紀」の注の中に、太上皇について、
名煓、一名執嘉。
名は煓、一名執嘉なり。
お名前は煓といい、またの名を執嘉という。
と書いてあるのです。「唐書」とはほんの少し(執嘉が字であるか、別名であるか)違うが、大した違いではない。
「後漢書」の注は典故とするところを記していないが、おそらくは既に散逸した、後漢の皇甫謐(こうほ・ひつ)の著した「帝王世紀」の記事であろう。
ということで、高祖のおやじどのの名やおふくろさんの姓が「漢書」に書いてないのは、名前や姓が無かったのではなく、歴史家が特に載せなかっただけなのです。
すなわち、
風俗質略、上皇無名、母媼無姓、此説失矣。
風俗質略にして上皇に名無く、母媼に姓無しという、この説、失なり。
風俗が質実でおろそかであったため、高祖のおやじどのに名前が無く、おふくろさまには姓が無かった、という学説は誤りである。
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考証よろしきを得て、スカッとしましたね。宋・王勉夫「野客叢書」巻十より。