月曜日は眠いねー。
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眠い目をこすりながら、城内を歩いていると、画を売る店があった。
その店に一幅の画あり、わしはつらつらとそれを見た。その画には三人の人物が描かれている。
前一人跨馬、後一人騎驢、最後一人推車而行。
前の一人は馬にまたがり、後の一人は驢に騎り、最後の一人は車を推して行く。
一番前の人は、馬にまたがって風を切っている。二番目の人は小さな驢馬に乗っている。最後の人は、とぼとぼと手押し車を押して歩いている。
その上に「画題」が書かれていた。
別人騎馬我騎驢。 別人は馬に騎り、我は驢に騎る。
後辺還有推車漢。 後辺またあり、推車の漢。
どこかの誰かさんは颯爽と馬に乗っているが、わしは小さなロバに乗る。
振り向いて後ろを見れば、手押し車を押しながら歩くやつがおる。
――人間、上を見てもきり無く、下を見てもきりが無い、という人生訓である。
これを「回頭看」(頭を回らせて看る見方)というて、この世の迷路に彷徨うている者の、目を覚ましてやることができる言葉である。
と、じろじろ見ておりましたら、店の人に
「お買いもとめですか?」
と訊ねられたので、
「ああいやいや」
と誤魔化しながら立ち去った。
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帰りがけ、春の雨にぱらぱらやられた。
しかしそれもまた一興。一雨ごとに暖かくなるのが春の雨なのだ、雨無くして春は到らぬのだから。
つらつら思うに、夏の雨、秋の雨、冬の雨、いずれもその時節ごとに必要な天候である。まことに、どの季節においても、
風雨不可無也。
風雨無かるべからざるなり。
風や雨が無い、というわけにはいきません。
しかしながら、
過則為狂風淫雨。
過ぐればすなわち狂風・淫雨となる。
あんまり吹き降るならば、狂った風、多すぎる雨と呼ばれ、ひとびとを苦しめることになるのである。
さて、このことから類推するに、
凡人処事、只需做到八分、若十分便過矣。
およそ人、事に処するに、ただ八分を做(な)し到るを需(もと)むべく、もし十分ならばすなわち過ぎたり。
たいてい、人が何ごとかをなすとき、八割ぐらいの完成度を求めるようにしておくのがよろしい。もし百パーセントやったなら、それはやり過ぎ、というものだ。
まあ、でも、いつもいつも一番いいあんばいに仕上げる、というのは、
非真有学問者不能。
真に学問有る者にあらざれば、あたわず。
本当に学識ある人にしかできないことでありましょうけれど。
(「真に学問有る者」とは我が国現代で言う「学識者」と本質的に意味が違いますので、念のため。)
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以上を肝冷斎の言葉だと勘違いして、
「わしが出張中に、昼間っからシゴトもしないで街中をほっつき歩いていたのか!」
とお叱りになるひとがあるかも知れませんが、それは誤解にございます。
これは、清の乾隆から道光の爛熟期に、各地で幕僚として世間の酸いも甘いも味わいわけになられた梅溪・銭泳のお言葉である(「履園叢話」第七より)。
前々日本国総理大臣が、今度はイランでまたまた「トラストミー」なことを仕出かして来たようですね。ノーベル平和賞が欲しいのだ、と口さがなく言うひともおりますが、本当に何で山頂に上りつめながら、さらに一歩、虚空に昇ろうとするのであろうか。