平成24年4月9日(月)  目次へ  前回に戻る

 

月曜日は眠いねー。

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眠い目をこすりながら、城内を歩いていると、画を売る店があった。

その店に一幅の画あり、わしはつらつらとそれを見た。その画には三人の人物が描かれている。

前一人跨馬、後一人騎驢、最後一人推車而行。

前の一人は馬にまたがり、後の一人は驢に騎り、最後の一人は車を推して行く。

一番前の人は、馬にまたがって風を切っている。二番目の人は小さな驢馬に乗っている。最後の人は、とぼとぼと手押し車を押して歩いている。

その上に「画題」が書かれていた。

別人騎馬我騎驢。  別人は馬に騎り、我は驢に騎る。

後辺還有推車漢。  後辺またあり、推車の漢。

 どこかの誰かさんは颯爽と馬に乗っているが、わしは小さなロバに乗る。

 振り向いて後ろを見れば、手押し車を押しながら歩くやつがおる。

――人間、上を見てもきり無く、下を見てもきりが無い、という人生訓である。

これを「回頭看」(頭を回らせて看る見方)というて、この世の迷路に彷徨うている者の、目を覚ましてやることができる言葉である。

と、じろじろ見ておりましたら、店の人に

「お買いもとめですか?」

と訊ねられたので、

「ああいやいや」

と誤魔化しながら立ち去った。

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帰りがけ、春の雨にぱらぱらやられた。

しかしそれもまた一興。一雨ごとに暖かくなるのが春の雨なのだ、雨無くして春は到らぬのだから。

つらつら思うに、夏の雨、秋の雨、冬の雨、いずれもその時節ごとに必要な天候である。まことに、どの季節においても、

風雨不可無也。

風雨無かるべからざるなり。

風や雨が無い、というわけにはいきません。

しかしながら、

過則為狂風淫雨。

過ぐればすなわち狂風・淫雨となる。

あんまり吹き降るならば、狂った風、多すぎる雨と呼ばれ、ひとびとを苦しめることになるのである。

さて、このことから類推するに、

凡人処事、只需做到八分、若十分便過矣。

およそ人、事に処するに、ただ八分を做(な)し到るを需(もと)むべく、もし十分ならばすなわち過ぎたり。

たいてい、人が何ごとかをなすとき、八割ぐらいの完成度を求めるようにしておくのがよろしい。もし百パーセントやったなら、それはやり過ぎ、というものだ。

まあ、でも、いつもいつも一番いいあんばいに仕上げる、というのは、

非真有学問者不能。

真に学問有る者にあらざれば、あたわず。

本当に学識ある人にしかできないことでありましょうけれど。

(「真に学問有る者」とは我が国現代で言う「学識者」と本質的に意味が違いますので、念のため。)

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以上を肝冷斎の言葉だと勘違いして、

「わしが出張中に、昼間っからシゴトもしないで街中をほっつき歩いていたのか!」

とお叱りになるひとがあるかも知れませんが、それは誤解にございます。

これは、清の乾隆から道光の爛熟期に、各地で幕僚として世間の酸いも甘いも味わいわけになられた梅溪・銭泳のお言葉である(「履園叢話」第七より)。

前々日本国総理大臣が、今度はイランでまたまた「トラストミー」なことを仕出かして来たようですね。ノーベル平和賞が欲しいのだ、と口さがなく言うひともおりますが、本当に何で山頂に上りつめながら、さらに一歩、虚空に昇ろうとするのであろうか。

 

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