明日もお休みでちゅう!
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なので今日も心安らか。
宋のころ、郭功父というひとが「老人十拗」(年寄の十のひねくれたところ)という詩(?)を作っています。みなさんはどれぐらい当てはまるかな?
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不記近事記得遠事。(近事を記せず、遠事を記し得。)
最近のことは覚えていないのに、昔のことはよく覚えている。
A
不能近視能遠視。(近きを視るあたわざるも遠きをよく見る。)
近いところのものはよく見えないのに、遠いところのものはよく見える。
B
哭無涙笑有涙。(哭するも涙無く、笑うに涙有り。)
声を上げて泣いても涙が出ないのに、笑うと涙が出る。
C
夜不睡日睡。(夜睡らず、日に睡る。)
夜中はずっと起きているくせに、昼間はいつもうとうとしている。
D
不肯坐多好行。(坐するをがえんぜずして、多く行くを好む。)
じっとしておらずに、どこかに出歩きたがる。
E
不肯食軟要食硬。(軟らかきを食らうをがえんぜずして硬きを食らうを要(もと)む。)
やわらかい食べ物を食べようとせず、堅いものを食べたがる。
F
児子不惜惜孫子。(児子を惜しまずして孫子を惜しむ。)
子どもには文句ばかり言って、孫ばかりをかわいがる。
G
大事不問碎事絮。(大事は問わざるに砕事は絮たり。)
大問題が起こっていても気にしないくせに、小さなことをくどくどと言う。
H 少飲酒多飲茶。(飲酒を少なくして茶を飲むこと多し。)
酒を飲むよりお茶を飲む。
I
暖不出寒即出。(暖かきに出でずして寒きには即ち出づ。)
暖かいうちには面倒がって外に出ないくせに、寒くなってくると外出する。
・・・ところで、丁巳(ひのとみ)の年(←1197年)、わしは七十二歳であった。
目視昏花、耳中無時作風雨声、而実雨却不甚聞。
目は昏花を視、耳中には時無く風雨の声作(おこ)り、而して実の雨は却ってはなはだしくは聞こえず。
目にはちらちらと花びらが散ってよく見えないし、耳にはいつも風吹き雨降るような耳鳴りがジイジイと聞こえているくせに、ほんとうに雨が降っていても雨音なんてよく聞こえない、という状態。
そこで、自ら上の十事を補足して対聯を作ったんだよ。
夜雨稀聞聞耳雨、 夜雨は稀に聞き、聞くは耳雨なり、
春花微見見空華。 春花は微かに見、見るは空華なり。
夜の雨音はときどきしか聞こえぬが、いつも耳鳴りの雨は聞こえている。
春の花びらははっきりとは見えないが、いつだってまぼろしの花びらはちらちら見えている。
これで十二になったよー。
これを朱元晦(晦庵先生)のところに送ったら、返事が来た。
大以為然、請余足成之。
大いに以て然りと為し、余にこれを足し成さんことを請う。
「まったくそのとおり、そのとおり。どうぞさらに続けてもっと増やしてくだされ」
朱晦庵先生はこの年数えだと六十八歳かな。
「どんどん増やしてもらいたいが、最後の結句は考えてみました」
というて、二句、
自矜○盲□宰相、今復痴聾作富家。
自ら○盲を矜りて宰相と□し、今また痴聾にして富家と作(な)る。
自ら道理がわからないことを自慢して総理大臣みたいにやりたい放題の人生、年老いて今はぼけて耳も遠く、何ごとも気にしない億万長者のようになった。
というのが書きつけてありました。
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と、昨日の周必大先生が「二老堂詩話」に書きつけておりました。ほのぼのしてますねー。朱子はあと二年で死にます。
ちなみに、○と□は別に伏字にしているのではなくて、版本に欠字があるのである。まあこんなことだろう、と推測して訳してみました。これでいいのかどうか宋の時代に戻って訊いてみたいが、二人とももうもごもごじじいだからよっぽど大きな声で聴かないと教えてもらえないでしょうねー。