明日は休みでちゅ! ゆっくり寝て、いい夢みたいでちゅう!
ところで、↓のひとはいい夢見れた、といえるのかな?
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余少時嘗夢至人家。
余、少時、かつて夢に人家に至る。
わしは、まだ若いころ、どこかの人の家に入っていく夢をみたことがある。
その家の書斎のあたりは群生した竹に覆われ、暗くどんよりしていた。
母屋の方に回ると、
堂下皆古柳、鴉噪不止。
堂下みな古柳にして、鴉噪ぎて止まず。
建物の側にはあちこちに老いた柳が植えられ、カラスが鳴き騒ぎ続けていた。
家の主人にはまったく会えず、
「陰気なところだなあ・・・」
と思いながら、夢の中で詩を作った。
竹多翻障月、 竹多くして翻(かえ)って月を障(さ)え、
木老只啼烏。 木老いてただ烏啼く。
竹がたくさんあって爽やかなはずなのに、かえって月の光をさえぎるばかり。
木が古びて荘重なはずなのに、どうしてはカラスがうるさく鳴くばかり。
竹は清らかなもの、木が古びれば鳳凰でさえやってくるかも知れないもの、なのに・・・。
というわけで、
似譏其主人也。
その主人を譏るに似たり。
この家の主人にはちょっとがっかりした、と言うような詩である。
眠りから覚めても、その陰気な家のことは鮮明に思い出せたから、その詩のこともずっと忘れることはなかった。
それから何十年も経った。
わしは官吏となり、あちこちに赴任した後、金陵(南京)の国学の教官を拝命した。
着任して、係の者にはじめて今の官舎に案内されたとき、
―――あれ? この家はどこかで見た家だな?
と強い既視感を覚えた。
則庁下及門外、古柳参天、鴉鳴竟日。
すなわち庁下より門外に及びて古柳天に参じ、鴉鳴きて日を竟(お)う。
つまり――母屋の前から門の外にかけて老いた柳が空に向かって伸びあがり、そのあたりではカラスが一日中鳴いているのである。
そして、
庁傍小書室、叢竹蔽虧。
庁傍の小書室は、叢竹蔽虧(へいき)せり。
母屋の横の小さな書斎は、群生した竹に破れ目まで覆われていた。
まったくあの夢のとおりの家である。
で、住んでみると静かでしっとりとしていて、カラスの声もよくよく聴いていると味わいのあるもので、若いころどうしてこの家の主人を批判しようなどと思ったのか、そのころの心情が思い出せないぐらいである。
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宋の周必大「二老堂詩話」より。休前日なので心のどかになり、ちょっと不思議でほのぼのとしたお話をお送りしました。なお、著者の周必大は南宋のひと、朱晦庵(朱子)とも深い交流があった。
わたくしにも、こういう幼いころ夢で何度も見た町、というのがあったような記憶があるのです。たしか古墳のある町で・・・いや、城跡だったか・・・。もしかしたらそんな記憶があった、ということそのものが成長してからの思い違いかも知れません。最近に至っては夢さえ見なくなった。その代わり、昼間の人生そのものが夢なのだ、という感じがだんだんしてきた。