休日出勤で、また疲れました。
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後漢の張綱は字・文紀、若いころから経学に明るいとの評判があったが、正義感が強く、時に順帝(在位126〜144)が宦官を信任し、さらにこれと結んだ外戚の梁冀が権力を掌握しているのを忌避して仕えず、常に激発し憤然として
穢悪満朝、不能奮身出命掃国家之難、雖生吾不願。
穢悪朝に満つるに、奮身出命して国家の難を掃うあたわざるは、生くるといえども吾願わざるなり。
あのきたないやつらが朝廷に満ち満ちているというのに、自ら奮い立ち、本当にやるべきことをやって国家の困難を掃除してしまえない。こんなことでは、たとえその方が長生きできるといっても、わたしはイヤだ。
と言っていた。
漢安元年(142)、全国に八使をつかわして、風俗のよきを選んで行わしめるとともに、各地にあって官に仕えていない才能あるものたちを調べさせ、彼らに時世について意見を問うことがあった。
このとき、多く長老クラスの儒者や既に知名の人士が選ばれる中、まだ年少の張綱も名を連ねられたが、
綱独埋其車輪於洛陽都亭、曰豺狼当路、安問狐狸。
綱、独りその車輪を洛陽・都亭に埋ずめ、曰く、「豺狼路に当たるに、いずくんぞ狐狸に問わんや」と。
張綱はほかのひとが意見を申し上げるために朝廷に赴く中、ひとり、馬車の車輪を居地の洛陽の都亭町に埋めてしまった。
そして言うに、
「やまいぬやおおかみたちが権力を握っているのだぞ。そんなときに、きつねやたぬきのようなやつらに諮問したところで、まともな答申が出ると思うか」
「車輪を埋ずむ」=お偉方からの招聘に応じない、という言葉の典拠でございますよ。
さて、張綱はそれでも強く意見を求められたので、十五事項にわたって大将軍・梁冀らを強く弾劾する意見書を提出した。
そして、どのような罰が下るか、覚悟して待ったのであったが、結局何の罰も無く、また朝廷からの反応もなかったのであった。
張綱は梁冀らの失脚後任官し、「良二千石」(良質な地方官。「二千石」とは知事クラスの給与であった)と称されたが、広陵太守のとき、病に伏した。
その部下も人民もみな己の信ずる神にぬかずいて、
千秋万歳何時復見此君。
千秋万歳、いずれの時かまたこの君を見んや。
千年・万年経ったとしても、今度はいつこのように素晴らしい太守にお仕えすることができるだろうか。
とその平癒を祈ったが、ついに卒す。年いまだ三十六であった。
百姓老幼相携詣府赴哀者不可勝数。
百姓老幼のあいたずさえて府に詣で哀に赴く者、勝数すべからず。
人民ども、老いたるも幼きも、手をとりあって知事府の門前に至り、弔問する者が数限りなかった。
という。
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「後漢書」巻86「張綱伝」より。
疲れたのでわしも車輪を埋めます。明日埋めるから月曜日からは会社に行けないね。豺狼たくさんいるし。