また弱ってきました。人生の指針と仰ぐ宋の安楽窩主人・邵雍(康節と諡す)の「伊川撃壌集」を読むことにする。
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どれどれ・・・
目時然後視、 目は時にしてしかる後に視、
耳時然後聴。 耳は時にしてしかる後に聴く。
口時然後言、 口は時にしてしかる後に言い、
身時然後行。 身は時にしてしかる後に行う。
眼があるとしても、そうすべき時になってから、見ることにせよ。
耳があるとしても、そうすべき時になってから、聴くことにせよ。
口があるとしても、そうすべき時になってから、言うことにせよ。
身体があるとしても、そうすべき時になってから、行動しなされ。
前不見厚禄、 前に厚禄を見ず、
後不見重兵。 後に重兵を見ず。
惟其義所在、 ただそれ、義のあるところのみ、
安知利与名。 いずくんぞ知らん、利と名とを。
高い給与を求めて行くわけではない。
恐ろしい武器から逃れようと行くわけではない。
ただ、「そうすべきだ」という為すべきことをするだけなのだ。
利益とも名誉とも関係のないことじゃ。
これは「四者吟」(四つのモノのうた)。前半と後半のつながりが難しいですね。つながっていないんじゃないかなあ・・・。
壮歳苦奔馳、 壮歳苦しみて奔馳し、
随分受官職。 分に随いて官職を受く。
所得唯錙銖、 得るところただ錙銖のみ、
所喪無紀極。 喪うところ紀極無し。
わかいころ、苦しい思いをしながら走りまわり、
ようやくそれ相応の官職をいただく。―――そうしたところで、
得られるものはほんの少しの金銭であり、
失うものは極まりない。
今日度一朝、 今日一朝を度し、
明日過一夕。 明日一夕を過ごす。
不免如路人、 免れず、路人の如く、
区区被労役。 区区として労役せらることを。
今日はなんとかひと朝を迎え、
明日はなんとかひと夕を過ごす。
どうしたって、旅人と同じなのだ。
ちまちまと疲れさせられて生きていくしかないのだ。
これは「偶得吟」(ふと思いついたうた)。作者はずっと民間人で、仕官したことがないはず(民間人でありながら「康節」という諡名を朝廷から賜っており、そのことが破格とされたほどである)。なのに仕官の苦しみを言っているので、これは自分の反省ではなく人への教訓なのであろう。
ああ、世の中はイヤなことばかりだなあ。
という気もしてまいります。
かと思えば、
会有四不赴、 会に四の赴かざる有り、(公会、生会、広会、醵会)
時有四不出。 時に四の出でざる有り。(大寒、大暑、大風、大雨)
わしは、公開のパーティー、誕生日のパーティー、広くひとを募って行われるパーティー、拠出金を募るためのパーティーの四種の会合には出ません。
また、ひどく寒いころ、ひどく暑いころ、ひどく風の吹く日、ひどく雨の降る日には出かけません。
無貴亦無賤、 貴も無くまた賤も無く、
無固亦無必。 固も無くまた必も無し。
相手の身分が高かろうが、低かろうがそうしております。
固執してそうだというのでなく、絶対にそうしようとしているのでなく、自然とそうなっているのです。
それ以外の日は、
里閈閑過従、 里閈(り・かん)閑にして過従し、
身安心自逸。 身安くして心おのずから逸なり。
如此三十年、 かくの如く三十年、
幸逢太平日。 幸いに逢う、太平の日。
横丁の門をひまなときにうろうろと出たり入ったり。
何にも縛られないから身体は楽だし、心はおのずと自由。
こんな生活をもう三十年も続けておりますよ(先生はこのころ六十歳過ぎ)。
幸いなことに太平の世に生まれ合わせましたので。
と人生うはうはになったりする。これは「四事吟」(四つの事項のうた)。
前半生は苦労したらしいのですが、「安楽窩」という居所の名からみて、「うはは、わしの人生は楽チンだなあ」というのがこの人の本来の思想だと思われる。。
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眠くなってきたのでもう読むのやめますが、こんなのばかりがいいっぱいあるんです。
安楽窩主人は生涯仕官せず、壮年以降洛陽に住んで司馬温公や程明道・伊川兄弟らと交わった文人である。北宋五先生の一人として、朱子学の先駆者に位置付けられはするのですが、きわめて特異な思想家であります。
易理を窮めて「先天易説」を唱えた前近代的自然科学者。
道士の服を着、小さな車に乗って洛陽の貴顕の家を訪れ、身の上相談を行う世間師にして、時に予言さえ行う魔術師。
平易な詩によって天地の間の哲理を説いた詩人哲学者。
そしてまたバリバリの旧法党のイデオローグ。
いつも名利に恬淡たる好好爺を思わせる言行を纏いながらも、なかなか一筋縄ではまいらぬじじいでございます。
今も彼の「先天易説」(梅花易)には、香港・福建・台湾には商売人を中心に信奉者が多いんらしいんでございます。