見大王之狗。(大王の狗を見よ。)
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戦国の時代、秦の昭王(在位前306〜前249)の宰相となった応侯・范睢の名言でございます。
戦国の七雄と申しまして、戦国の終わりごろには、天下は七つの国に分かれておりました。西にあってもっとも強大な秦の国と、あとは、漢・魏・趙・斉・燕・楚の六国でございます。
他の六つの国は強大化する秦の横暴に耐えかねて、それぞれの国の賢大夫たち(優秀な大臣)を趙の国の都・邯鄲に遣わし、ここにおいて六国で大いに同盟(合従)して秦を攻めようという謀議をこらすことになった。
その報は秦の都・咸陽にももたらされた。六国に同盟されたのでは、さすがの秦国といえどもこれを支えきれぬであろう―――昭王は苦慮した。
・・・と、そこへ、宰相の范睢が謁見を求めてまいりました。
「おお、応侯の智慧を聞こうとしたところじゃ」
王はすぐに范睢を招じ入れたのであります。
范睢、心配顔の昭王に向かいまして、
「王様、何を御心配しておられるのでござりまするかな?」
と訊ねる。
「これはこれは。先生(宰相をこう呼んだ)にも六国の賢大夫たちが邯鄲にて秦を討伐せんとの謀議をこらしておること、お聞きずみでござろうに」
范睢はそれを聞いて、にまにまと笑い、
王勿憂也。
王よ、憂うる勿れ。
「王様、そのことで御心配になるには及びませぬぞ」
と答えたのであった。
「六国の賢大夫らは我が秦をにくんでいるのではございませぬ。ただ、自分たちが富貴になりたいだけなのでございます」
「そうか・・・」
昭王は信頼する范睢の語を聞いても、なお悩ましそうに考えこむふうである。
「王よ、まことに御心配には及びませぬ。
王、見大王之狗。
王よ、大王の狗を見よ。
王様、王さまがお飼いになっておられるイヌどもをご覧なされば、よろしゅうござる」
「イヌども?」
「あい」
王と范睢は、王宮の中庭に飼われている大きなイヌたちを見やった。
「ご覧のとおり、
臥者臥、起者起、行者行、止者止、毋相与闘者。
臥する者は臥し、起つ者は起ち、行く者は行き、止まる者は止まり、あいともに闘う者毋(な)し。
ごろごろしているイヌはごろごろしておりますし、起き上がっているイヌは起き上がっておりますし、歩きまわっているイヌは歩き回っておりますし、じっとしているイヌはじっとしている。どれもこれもあい争おうなどというふうはございません。
ところが、ここにじゃ・・・」
范睢は懐から、昼飯の食いさしの骨を一かけら取り出す。
「くくく、王よ、ようく御覧じよ、これを・・・」
投之一骨、軽起相牙。
これに一骨を投ずるに、軽起してあい牙(が)す。
イヌたちの間にこの一かけらの骨を投げ込むと、さっきまでお互いにかまいあうことのなかったイヌたちが、一度に跳ね起きて、
きゃん! きゃん!
ばう! ばう!
と激しく鳴き、咬み合いはじめた。
何。則有争意也。
何ぞや。すなわち争意あるなり。
「これは、獲物を与えてやったからでござる。獲物を与えられて、お互いに争う気になったというわけでござるよ」
「ふむ・・・なるほどな」
ここにおいて昭王の表情はついにほころんだのである。
「費えはどれほどでもかまいませぬ。先生のよろしきようにしてくだされ」
「あい」
范睢は腹心の唐睢に命じ、数十台の車に楽師や妓女を満載せしめ、五千金を預けて趙の国に向かわせた。
唐睢は趙の武安の町につくと、町中に酒食を振舞い、大いに音楽と歌舞を披露して宴し、しかして
邯鄲人誰来取者。
邯鄲のひと、誰か来りて取る者ならんか。
「今、趙の都・邯鄲に集まっておられる賢者たちの中で、どなたがこの富貴を取りに来られる方であろうかなあ?」
と大声で言うた。
「もちろん、この富貴は、秦を攻めようと謀ごとした人とともにするわけがござらぬ。秦と兄弟たらんとする人とは、この富貴を分かちあうことになりますがのう」
と加えて言うた。
すると、
散不能三千金、天下之士、大相与闘。
散ずること三千金にあたわずして、天下の士、大いにあいともに闘えり。
まだ三千金しか使わないうちに、趙の都に集まっていた天下の賢者たちは意見が合わなくなり、互いにののしりあいをはじめたのである。
かくして、六国同盟して秦を討伐しよう、という謀ごとは、ついにまとまることはなかった。
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「戦国策」巻三・秦策より。今宵の御伽は以上にござります。
寒いです。寒くても、イヌは元気に庭を駆け回っておりますなあ。イヌほどの野心さえ無いわれらはイヌにも劣るのでございますけれど。