まだ踏みとどまって、今日は富山市郷土博物館に逝く。それから高岡からバスに乗って太平洋側へ。バスの中で泣き寝入りしたので少し元気になったような。
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昨日に続きまして、瑞龍鉄眼の詩のうちにこのようなものがあった。
「旧友に逢う」
離別東西二十年、 東西に離別すること二十年、
君専念仏我参禅。 君はもはらに仏を念じ、我は禅に参ず。
相逢何必論高下、 相逢いて何ぞ必ずしも高下を論ぜんや、
風月由来一様天。 風月は由来一様の天なり。
東と西に別れてしまい、もう二十年にもなるのう。
おまえさんは念仏に専心しておったと思うが、わしは禅をやっておった。
ここで逢うて、どうしてどちらがエライとかダメだとか論じ合うことがあろうか。
空の上の風と月は、わしら二人ともにずっと同じように接しているのだからのう。
瑞龍禅師はもと肥後の浄土宗の寺にいて、そこから出て上方で「明から渡ってきたばかり」の黄檗隠元のもとに参じたひとである。シナの新しい宗派に飛びついて難波で高名になったのだ。地元でずっと「念仏」をしていたひととは何となくわだかまりもあったのかも。
上の詩はちょっと上から目線的な気持ちもあるように感じるのは、わしの僻目かな。