また暑かった。
発句 じりじりと我が身灼けゆくブタの國 とんすけ。
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李太白の「前有樽酒行」を続けます。
第二歌
琴奏龍門之緑桐、 琴は龍門の緑桐を奏し、
玉壺美酒清若空。 玉壺の美酒は清きこと空しきがごとし。
「龍門」は黄河の鑿通する場の地名でもありますが、それより南朝の任ムらが貴族の子弟の特に風雅な者たちだけで行った行遊を「龍門の遊」と言うたから、そのことだと考えてみます。
奏でる琴は龍門の行遊のときにも使われた緑桐の名器、
玉製の壺の中 美し酒は空っぽに見えるほどに澄みきっている。
古来、この、酒の「清きこと空しきがごとし」の一語、「難下」(ふつうの神経で使える文字ではない)と評される。
催絃拂柱与君飲、 絃を催し、柱を拂い、君と飲めば、
看朱成碧顔始紅。 朱を看、碧を成し、顔はじめて紅なり。
絃を弾いて曲を奏でさせ、琴柱を外させて乱れはじめるまでにおまえと飲もう。
朱色の口紅、みどりの隈取り、頬がやっと赤く色づいてきたのう。
胡姫貌如花、 胡姫、貌(かんばせ)花の如く、
当壚笑春風。 壚(ろ)に当たってに春風に笑う。
笑春風、 春風に笑い、
舞羅衣。 羅衣もて舞う。
西域むすめたちの顔だちは、まるで花のようだ。
酒場のカウンターで春の風に頬笑んでいる。
春の風に頬笑んで、
うすぎぬで踊るのだ。
かなり官能的になってまいりました。
ですが、直後に一曲は唐突に終わる。
君今不酔将安帰。 君、今酔わずしてはたいずくにか帰らんとす。
おまえさん、今ここで酔わないで、いったいどこに行こうというのだ。
結句はまるで脅迫するかのような疑問文である。「酔」の一語、
使人目眩心恠。
人をして目眩(くら)み心恠(あやし)ましむ。
読者にめまいを起こさせ、心を不安に陥れると思わないか。
と、宋の厳羽の「滄浪詩話」に評されているぐらいであります。
ということで、李太白の「前有樽酒行」は、まったく「ことほぎの歌」「祝いの歌」ではありません。「唐宋詩醇」にいう、
即白所云、浮生若夢、為歓幾何之意。
すなわち白の云うところは、浮生は夢のごとく、歓びを為すこといくばくぞや、の意なり。
というように、李白の云うていることは、「浮世の人生は夢のように過ぎていき、楽しい気持ちでいられるのは本当に短い間だけなのだ」という思いなのである。
一方で李白のうたはおのずから細かいところに工夫があり、
不是一味豪放。
これ、一味の豪放にあらず。
ただ豪快なだけで放漫に歌い捨てているわけではない。
また、その詩句はしっかりしていて、
不是斉梁卑靡之音。
これ、斉・梁の卑靡(ひび)の音にもあらず。
六朝の斉・梁時代の詩のような卑猥でねじけたうたにもなっていない。
だから、「妙」=すばらしい。
と言っております。「唐宋詩醇」は乾隆帝の御纂の形をとっておりますから、いろんな意味で「最高」のひとに褒められて、李太白も地下でにやにやしていることでございましょう。
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最近「褒め上げ詐欺」というのがはやり始めているらしいですから、褒められたときこそは疑わねばならぬとき、かも知れませぬが。