今日の「同窓会」を楽しみにしていた肝冷斎さんですが、かわいそうに昨日とうとう・・・。今日からは彼の思いを引き継いで、このわし、負藕堂主人があとを続けますのじゃ。
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武昌の町の漢朝門の東に、かつて黄鶴楼が立っていた。
遠いむかし―――、楼の主人が貧しい旅人に無銭飲食を許したところ、旅人は筆をとって壁に黄色い鶴の絵を描いた。
その鶴の絵、客人が手を拍つとそれに合わせて踊るまことに不思議な絵であったので、たちまち楼は評判となり、多数の客が遊んで主人は裕福となった。
三年ほどすると以前の旅人がやってきて、
「お預けしてあったものを返していただきますよ」
と言うて二度ほど手を拍つと、黄鶴は絵の中から飛び出して実体化し、旅人これにまたがっていずこともなく飛び去って行った・・・
黄鶴一去復不還、 黄鶴ひとたび去りてまた還らず、
白雲千載空悠悠。 白雲千載むなしく悠悠。
黄色い鶴(に乗ったひと)はひとたび去って二度と帰ってこない。
白い雲がそれから千年の間、なんのかいもなくはるかに浮かんでいるばかり。
という「黄鶴」伝説で名高い高層建築でありました。
さて。
清末の大文人で光緒末年に軍機大臣となった広雅堂主人・張之洞。字は香濤、自ら壺公、あるいは無競居士、また抱冰堂主人とも号し、同治二年の進士にしてつとに文名高く、古典に基づいた実学を提唱した。実務家として両湖督撫にあること長く、京漢鉄道、漢陽鉄廠(製鉄所)、萍郷煤鉱(炭鉱)などを創始した―――という近代シナの巨人である。
彼が督撫から大臣になるため北京に呼ばれたとき、武昌の官民は彼のことを思い、かつて「黄鶴楼」の建っていた場所に、彼を記念した高層建築を作った。
そして、張之洞自身に楼に名をつけてもらい、あわせて長江に面した正面に飾る額の揮毫を依頼した。張は個性的で雄渾な筆致で「奥略楼」と書き上げた。
この奥略楼には、
楼前有時計鐘、絶大。
楼前に時計鐘の絶大なるあり。
楼の正面(額の上)に、特大の鐘付きの時計が取り付けられていたのである。
この時計は長江を往来する船からもよく見えた。
然実無機括、針指不能動。
しかるに実に機括無く、針指動くあたわず。
ところが、実際にはこの時計にはバネもゼンマイも無く、時計の針はもともと動かないのであった。
つまり、ただの飾りだったのだ。
張之洞が失脚し死んだ後、船に乗ってこの楼と時計を見る者は、みな笑いながら、
文襄以喜挙新政著称于時。然所行新政類皆虚有其表、亦有異于此鐘否乎。
文襄、新政を喜挙する以て時に著称さる。しかるに行うところの新政の類、みな虚しくその表あるのみ。またこの鐘に異なることあるや否や。
「文襄」は張之洞が死後おくられた諡号である。
張文襄さまは、あのころ、新しい政治を始めるひとだというて高く評されていたものだ。しかし、あのひとの行った新しい政治とかいうものは、すべて表づらだけしかなかったのである。(はじめから動くことのない)あの楼の時計とどこか違うところがあるだろうか。
と言い合ったということである。
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えー! 張之洞は同時代の茶香室主人・兪樾とあわせ「北張南兪」と並称された大文人さまで、洋務運動に従事したエライさんだと思っていたのに・・・ちょっと幻滅した。民国・徐珂「清稗類鈔」より。
一国の宰相まで務めた方を、表づらだけきれいにしたお飾りの時計と同じだ、と言うとは、なんと怪しからん人民ですかなあ。一国の宰相まで務める方だ、表づらだけだ、なんてことがあるはずないでありましょうになあ。今日どこぞの国で一国の宰相まで務めた方が辞任の会見をなさっていたが、あのひとも一国の宰相まで務めた方ですからねえ・・・。うふふ。
それにしても「同窓会」でお会いしたN坂さん、相変わらずお元気そうでしたね。