今日はおもしろかったな。キノピーやカメは最低だな。かっこうをつけようともしないからな。
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蘇東坡がいつも言っていた。
「ゲンダイ人(北宋の時代)の悪いところは、変なカッコウをつけることじゃ。その点、いにしえの人は違った。
古人所貴者、貴其真。
古人の貴ぶところは、その真を貴ぶなり。
むかしのひとは、カッコウなどつけない真率さを貴んだものだ」
○第一例 陶淵明のこと。
陶淵明は「五斗の米」を俸給にもらうために同郷の後輩である上司に腰を折ってへいこらすることができるか、と言うて「帰去来辞」を作って、職を捨てて田舎に引っ込んでしまったひとである。
ところが、
帰久之、復遊城郭、偶有羨于華軒。
帰りてこれを久しくし、また城郭に遊ぶに、たまたま華軒において、羨むことありき。
田園の実家に帰郷してしばらくしてから、久しぶりで街中に出たとき、華やいだ邸宅の前を通りかけると、
「いい暮らしをしておるな」
と羨ましがった。
ということである。
まことに正直なひとであったというべきだろう。
○第二例 漢の高祖のこと。
漢の高祖は将に将たるの大度量であるが、大きな問題に突き当たって何らかの命令を下すときには、
鋳印銷印、甚于児戯。
印を鋳し印を銷すこと、児戯よりも甚だし。
はんこを押しては削り、削っては押し、まるで子どもがいたずらをしているようであった。
という。
大事に臨んで悩み苦しむというのは小心者のように見えないでもないが、
然其正直明白、照映千古、想見其為人。
しかるにその正直明白なること、千古に照映して、その人となりを想見す。
けれどもその正直で飾り気がなかったこと、千数百年の時を超えて、そのひとの人柄を明らかに想像することができるではないか。
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宋の僧・恵洪「冷斎夜話」巻一より。
かっこうつけないやつはかっこいい。
―――とおいらも思って、童子となって外見を気にせずに生きることにしているのでちゅ。が、まだふとすると他人様の目にかっこうよく見えようとしているような気がして、なかなか気が抜けません。