廬山の雲峯寺から天池寺に登る。
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・・・道を登れば登るほど道は険しくなってくる。緑の崖や深い谷をいくつも越え、わしはさらなる高みに昇った。
絮而粘屨者曰雲、幽咽而風絃者曰澗。
絮(じょ)にして屨(く)に粘するものは、曰く雲なり。幽かに咽びて風の絃(いと)たるものは、曰く澗(たに)なり。
さっきからわしらの履物に纏わりついてくるワタのようなものはー――これは雲ではないか。
風がかき鳴らす弦楽器のように、かすかに咽び泣くように聞こえるのは―――あれは谷川のせせらぎじゃ。
千尋の高さに横たわる大石をそのまま橋にしたのが「錦澗橋」。
紅の花に緑のつたがねじれめぐりうねうねと人を誘うように延びているのは「九畳屏」。
まるで怒りっぽい男が怒ったようにごつごつと怖ろしいのが「鉄船峰」。
数里(2〜3キロ)ほど山道を行くとそれぞれ小さなあずまやがあった。すべてで五つあったと覚えるが、そこに至るたびに、杖をへそにところに置いて、幅広の葉を巻いて杯の代わりにし、泉の水を酌んで飲んだ。
この先になお仏寺があると信じる者しかその先に進まないという「試心石」を過ぎ、「竹林寺」の裏手を通る。
泉韻木響、皆若梵唄、乃拝。
泉の韻(おと)、木の響き、みな梵唄のごとく、すなわち拝す。
流れる小川の音、木のさやぐ響き、どれをとっても西域伝来の「仏教歌唱」のようである。わしはあちこちで足を止めて、大自然を拝んだ。
ようやく天池寺の伽藍が見え始めた。
いくつもの峰が寺の背後を守るように立つ。山はまだ天の半分を占めるほど高いのだ。
仏像の納められた本殿はたいへん華やかであり、上から鉄の蓋がかぶさっていた。その階下を緑の冷たげな流れがめぐっており、わしはそのかたわらで少し休んで、体を落ち着かせた。
それから寺僧の案内で、裏の「文殊台」に登った。
タカの背中が見下ろせる。
千の山々が一望のもとだ。
ああ――――
しばらくすると、わしらの立っている岩の下から雲が縷々と湧きだした。
岩の上の松の木をめぐって、まるでお茶を沸かすための煙のように穏やかに、枝先にたどりつき、そこから今度は静かに根もとの方に下り始めた。
已乃為人物鳥獣状、忽然匝地、大地皆澎湃。
すでにすなわち人物鳥獣の状を為し、忽然として地を匝(めぐ)り、大地みな澎湃たり。
今度はニンゲンや物体や鳥やケモノー――いろんなモノの形になりながら、たちまちのうちにわしらの足元にいっぱいになり、地面は一面に沸き立つ波が広がったようだ。
撫松坐石、上碧落、下白雲、是亦幽奇変幻之極也。
松を撫し石に坐し、上は碧落にして下は白雲、これまた幽奇変幻の極なり。
手を伸ばせばそこに松が実体としてある。わしは確かに石の上に座っている。しかし、見上げれば落ちるように深い青い空だ。足元にはどこまでも続く白雲の床だ。これはもう、隠された不思議な世界、変化と幻妖の極みである。
わしは居ても立ってもいられなくなってきた。
うおおおう――――
走告山僧。
走りて山僧に告ぐ。
わしは案内の僧侶のところに走り寄って、何かを告げようとしたのだが・・・。
僧曰、此恒也、無足道。
僧曰く、「これ恒なり、道(い)うに足らず」と。
僧は苦笑しながら、
「いつものことですよ。おっしゃるほどのことではございません」
と言うたのだ!
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ええー! そうなんですか、これがふつうなんですかあ! いやあ、吃驚(びっくり)した。
明・袁中郎「至天池寺記」(「晩明二十家小品」所収)。
ほんとにびっくりしますね。「吃驚」と書いて「びっくり」というのもなんだかおもしろいですが、そういえば最近「びっくりした」ことといえば、この国のKん総理。他国の「フロント」と思しき団体に巨額の献金。国会で追及されて「事実だ、適法だ」。「適法」だったら何してもいい―――はずがないだろうに。国際テロリズムとの関連まで云々されているのもびっくりしたが、それをテレビ局が軒並み報道しない、というこの国のメディアの在り方にもまたびっくりした。が、さらに今日のネット情報では国会でハ○○政務官が「地震兵器・津波兵器の開発は国際政治の常識」とまで来た。ああびっくりした。ここまで来たらスリーパーのわしもそろそろ行動を起こすときかな。
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