ペキン郊外の上方山に登ってきました。
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展望のよい歓喜台のところから石段を昇ります。
凡九折、尽三百余級、始登毘廬頂。
およそ九折、ことごとく三百余級、始めて毘廬頂に登る。
たしか九回曲がります。それぞれ三百余段。ということは、二千七百段以上! ようやく毘廬(ビル)峰の頂の台地に上がりました。
最初張り切って昇っていた肝冷斎だが、最後は一番ドベになった。
「はあ、はあ・・・」
「肝冷斎、大丈夫か」
「肝冷斎は童子のくせにでぶだからつらいじゃろう」
「だ、だいじょうぶ、でっちゅ」
「毘廬」はもちろん「毘廬遮那仏」(ビルシャナ・ブッダ)のこと。宇宙の根源の仏。周囲から抜きんでた高峰なのでそういう名前がついているのである。
そして、なんと、この頂上台地には、一百二十のお寺があるのです。赤やら青やらの屋根瓦や壁や柱やらが、岩に嵌め込まれたように連なっている。寺の建物はどれもこれもこぎれいに手が入れられ、花が咲き、竹が植えられ、江南の洒落た別荘のようであった。
このときはちょうど牡丹の盛り。中庭ごとに紅の花香り、わしらの裾ににおいが染みついた。
「なんにせよ、ハラが減ってたまらんでちゅう」
「わはは、肝冷斎はでぶじゃ、ここまで上がってくるのにたいへんな位置エネルギーを使っておろうからなあ」
「わはは、精進料理でも頼もうではないか」
一寺を選んで飯と宿を頼むと、寺僧はよくもてなしてくれた。
山肴野菜、新摘便煮、芳香脆美。
山の肴、野の菜、新たに摘みてすなわち煮、芳香ありて脆美なり。
山中の食べ物、野で得た野草、摘みたてのをそのまま煮る。心地よい香り、歯触りも柔らか、そして―――美味い。
「うまいでちゅう」
「うまいのう」
「味わい深いのう」
ただ、山中のゆえであろうか、お茶が無い。代わりに、黄色いみょうがの芽を煎てくれて、そのふくよかな香りと爽やかな飲みごたえは言葉に尽くせないほどであった。
夜宿喜庵方丈。共榻者王則之、黄昭素也。昭素鼻息如雷、予一夜不得眠。
夜、喜庵の方丈に宿す。榻を共にする者は王則之、黄昭素なり。昭素は鼻息雷の如く、予、一夜眠るを得ず。
この晩、喜庵という庵の狭い部屋に泊めてもらった。一台のベッドを王則之、黄昭素とともにしたが、昭素のやつのいびきは雷のようであって、わしはとうとう一晩中うるさくて眠れなかったのであった。
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あれ?
わたしは? わたしもまだ童子だったが、あの晩、同じ方丈の中に寝ていたはずなのに・・・。わたしの名前は書いてくれてないのか?
・・・と思いましたが、よくよく考えれば、これは明の袁伯修の「上方山四記」二(「晩明二十家小品」より)という文章。肝冷斎のような20世紀生まれのニンゲンが参加していたはずがないではないか。―――そうですか。あの山頂に出たときの爽快感、あのボタンの香、あの山菜の味、分け隔てない友たちとの友情・・・すべて現実のこととして覚えている・・・ような気がするのに、わしはその時代のそのひとたちと同じ時間を分け合ってはいなかったというのですか。
あまりに近代的な感性と叙述に、ついつい自分も参加していたのかと思ってしまっていましたが、肝冷斎の妄想でちたね。
絶望してきました。もう長くないのかも。