本日は、千葉みなとタワーに昇ってまいりました。
わたくし、狭いところも高いところもダメなのです。しかし、妖精と煙は高いところに昇る。
本日、わたくしの信仰する妖精コボルトさまが顕現(コボルト教団では「みあれましませり」と訓じます)られ、
「高いところに昇りなちゃい」
と御命令(「みことのりしてのたまいしく」と訓じます)かれたので、信徒(「コブン」)が教主さま(「オヤブン」)の言うことを聴きませんと、これはムホンとなります。
ムホンをいたしますと後の罰(「くだしまいらせるところのいましめ」)がコワいので、言うことを聴いて、タワーに昇ったのでした。
じめじめとして遠くを見渡すことはできませんでしたが、展望台のガラスに表からたくさん小さな虫がへばりついておりまして、こいつらはどこから来たのだろうか、何を食って生きているのだろうか。と思うと不思議でなりませんでした。
ああ。そうなのだ。ムシでさえ、こんなところにへばりついて生きているのだ。なのに、わたしは・・・・
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うう。
ムシの話をしてみます。
あるところにたいへん貧しい文人あり。
夏の終わりのある日、そのひとに随う童子が主人に訊ねた。
「だんなさま、庭の木で弱ったように鳴いているのは何でございましょうか」
「あれは秋蝉じゃな」
童子問う、
蝉食何物。(蝉は何物を食らうや?)
「セミは何を食べているのでちょうか?」
主人答う、
吸風飲露耳。(風を吸い露を飲むのみ。)
「セミは風を吸い、露を飲むだけなのじゃ。何も食らうことはない」
童子問う、
蝉着衣否。(蝉は着衣するや否や?)
「セミは服を着ているのでちゅかね?」
主人答う、
不用。(用いず)
「セミは衣服なんか使わないよ」
童子応じて曰く、
此蝉正好跟我主人。
これ蝉ぞ、まさに我が主人に跟(したが)うに好からん。
「あのセミは、だんなさまにお仕えするのにぴったりのやつでちゅね」
「跟」は「かかと」、動詞では「あとにつき従う」の意。
主人は、ぼろぼろの服を着て腹を空かせているらしい童子を見て、
信矣。(まことなるかな)
「ほんとうだなあ」
と頷いたという。
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旅の商人が故郷に帰ってきた。
家族が旅先でのことを問うに、商人言う、
過了黄牛峡、蚊虫大如鴨、過了鉄牛河、蚊虫大如鵞。
黄牛峡を過ぐれば蚊虫大なること鴨の如く、鉄牛河を過ぐれば蚊虫大なること鵞の如し。
長江中流の黄牛峡より向こうでは、蚊がカモのように大きいのだ。さらに鉄牛河という河を渡ると、蚊はアヒルのように大きくなる。
それを聴いて妻が訊ねた。
何不帯些回来、煮吃。
何ぞ些かなりとも帯びて回来し、煮吃せざる。
どうして一匹二匹でも捕まえて持って来てくれなかったんですか。煮て食べれば節約できますのに。
商人は答えて曰く、
得他不来吃吾也勾了、我怎敢想去吃他。
他(かれ)の吾を吃(くら)いて来たらざるや勾了せり、我、怎(いか)であえて他を吃うを想去せんや。
あいつがわしを食ってしまわなかっただけでも不思議でならんのに、わしがどうしてあいつを食おうなどと思おうか。
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「広笑府」巻五より。どちらも「吝嗇」(ケチ)を嘲笑しているようです。ちっともオモシロくはないが。もっとオロカなの毎日見ているので。