・・・これだけは予言しておく。この次の大事にも必ず新聞は国を過まる。
と、我が(心の)師・山本夏彦翁は繰り返し繰り返し言っておられた。1970〜80年代だから「新聞」と言っていたのでしょうが、今なら「マスゴミ」と言い換えねばなるまい。いずれにせよ、予言はすでに成就した。一昨年の「政権交代」さま、今回の「大人災」さま。なお今後も繰り返し成就し続ける勢いだから、わしも(心の)師の言葉を繰り返しアップしておくのだ。
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と、言いたいことを言ってしまいました。ので、今日はもう言うことない。
が、せっかく「師」などという言葉を使ったので「師」と「弟子」の会話を一つ。
・・・その一
風がさわやかに部屋を吹き抜けると銅の鈴がからからと涼しげに鳴った。
師は弟子に訊ねた。
鈴鳴耶、風鳴耶。
鈴の鳴るか、風の鳴るか。
「今音を立てたのは鈴かな? 風かな?」
弟子は答えた。
非風非鈴、我心鳴耳。
風にあらず鈴にあらず、我が心の鳴るのみ。
「風ではありません、鈴でもありません、おいらたちの心が鳴っただけではありまちぇんか」
師、間髪を置かずに問う、
心復誰乎。
心とはまた誰ぞや。
「心? それはどいつじゃ?」
弟子曰く、
倶寂静。
ともに寂静(じゃくじょう)たり。
「ああ、もうどちらも静かになりまちたねえ」
二人は顔を見合わせてにやにやとした。
・・・その二
月氏の国でのこと。
旅の僧がほとほとと屋敷の門を叩いた。一夜の宿を乞おうというのである。
屋敷の主はバラモンであった。仏法僧と縁は無い。童子に扉を閉じたまま答えさせた。
此舎無人。
この舎、ひと無し。
「いま誰もいまちぇんよ」
すると旅の僧は、静かに、しかし威厳あふれる声で言うた、
答無者誰人。
無と答うるものは誰ひとぞ。
「「いない」と答えた、まさにそれは誰なのじゃ?」
童子、我が心の中において、外物に応接する中につねに自己を主宰する「主人公」の存在に気づき、扉を開けて僧の前にひれ伏すと、そのまま出家した。
・・・その三
またある童子、師に入門して初めて面会したとき、師は
以満鉢水示之。
満鉢の水を以てこれに示す。
鉢に水をなみなみと湛えて、黙ってこれを示した。
童子は
以一針投水。
一針を以て水に投ず。
一本のハリをその中に投げ込んだ。
そして二人はにやにやとほほ笑み合った。
―――宇宙は水のみなぎるごとく既に完全である。おまえは何が不足でわしに入門するのかな? ぐふふ。
―――わたくちという一本のハリを投げ込んだとて宇宙の完全性は破られることはございまちぇんもんねえ。 うひうひうひ。
というようなところでしょうか。
・・・・・・今日は「一つ」というておいて三話はなしてみました。いずれも宋の釈・道原撰「伝灯録」より。15〜18祖あたりのインドの伝説的な禅師たちの会話ですから、史実ではありませんよ。絶対。
ちなみに、今日は写真の読み込みとアップをしてみた。苦労したす。うまくいっているかどうかわかりません。
←どうだ? 20年前だから若いっすね。写真がうまく行ったら、次はメール網に戻る努力をしなければならぬ。